第56話 裏方として
(リセル視点)
研究記録の紙が、机の上だけでは足りなくて床にまで広がっていた。
その間をなんとか縫いながら、分類の終わった束を棚の端に積んでいた。測定値の羅列。観測日時。精霊の反応パターン。数字と言葉が敷き詰められた紙は、整理するそばからまた別の紙が気になって、思うように片付かなかった。
ノックの音がした。
反射だった。手が動いていた。フードを引き寄せ、深く被った。体が先に動いて、頭はあとからついてきた。何年もかけて染みついた習慣だった。
「どうぞ」
声を少し震わせた。これも習慣だった。
扉が開いた。入ってきたのはヘルミーネだった。
フードの端から確認して、少し息を吐いた。手が自然とフードを外していた。
ヘルミーネに私の正体を明かしたのは、この学院に入る前のことだった。ヘルミーネのことは事前に調べた。どんな人物かを知った上で、話した。調べた通りの人だったと思っている。
あの日以来、ヘルミーネは一度も余計なことを口にしていない。
「ここに来るなんて珍しいわね。どうしたの?」
「リセル、ちょっとあなたに話があってね」
ヘルミーネはいつもと違う顔をしていた。二人でいるときに見せる柔らかい表情ではなく、何かを決めてきたときの顔だった。それだけでわかった。普通の訪問ではない。
扉が閉まると、ヘルミーネが何かを差し出した。受け取った。手の中に収まったのは一通の手紙だった。
「これは?」
「大聖堂からよ。シュタイナー司教が、私に寄こしたの。昨日、会って話してきたわ」
手紙を持ったまま動かなかった。自分でも表情が変わったのがわかった。
「この手紙を私に見せて、どうしたいの?」
顔の近くで手紙を持ち、ヘルミーネに見せるようにしながら聞いた。ヘルミーネはその問いには直接答えなかった。
「まぁ、聞いて。シュタイナー司教の用件はあなたのお気に入りのアーデン君のことだったわ。それに、三日前にはシュタイナー司教が大聖堂で直接アーデン君と面会したそうよ」
手紙を持った手が、自然と下がった。
あの男が、リュート・アーデンと直接接触した。
何を考えている?
「それでね、リセル。あなたにも手伝ってほしいの。今のままでは、アーデン君を守れないかもしれないわ」
「どういうこと?」
「教会が圧力を強めてきたわ」
少し考えた。
リュート・アーデンに何かあっては困る。それは確かだった。あの精霊術の在り方を、研究する前に潰されるわけにはいかない。それだけではなかった。リュート・アーデンが精霊に話しかけるとき、私は精霊がどう動くかを見ていた。命じるのでも、契約を行使するのでもなく、ただそこに向かっていた。精霊の側も、その向かい方に応えていた。あの在り方を、研究対象への興味とは別のところで、ただそのままにしておきたいと思っていた。だが、まだ正体を明かすわけにはいかない。
「……裏方なら」
そう言うと、ヘルミーネの表情が柔らかくなった。
「十分よ」
笑顔で答えたが、続きがある顔をしていた。
部屋を見回し、積んだ紙の束を端に寄せて椅子を一脚引いた。長くなりそうだと感じたからだった。お茶を入れるために立ち上がると、ヘルミーネが鞄からお菓子の包みを取り出した。最初からそのつもりで来たのだとわかった。
お茶を一口飲んで、本題に戻った。
「それで、手伝うと言っても何をすればいいの?」と聞いた。
「今、アーデン君はエーレンバルトに目をつけられている状況よ。そのエーレンバルトがシュタイナー司教にアーデン君の情報を流しているわ。その結果が、大聖堂への呼び出しでもあり、この前の特別講義でもあるの」
手の中の茶杯を見つめた。
エーレンバルトがリュート・アーデンを気にしていることはわかっていた。だが、それを教会に伝えていたとは思っていなかった。あの特別講義にまで影響していたとは。精霊を神の使いと規定して人間の管理下に置こうとする教会の論理は、概要を聞いただけで十分だった。その講義に出席することは、精霊とともに生きてきた者には苦痛以外の何ものでもない。エーレンバルトがその講義の実現に関わっていたとは、思っていなかった。
茶杯をそっと置いた。思ったより力が入っていた。
「エーレンバルトが目をつけた理由はアーデン君の精霊術の違和感によるものね」
そう言って、ヘルミーネが一枚の紙を取り出した。受け取って確認した。授業の記録のようだったが、全体の筆跡の中に、一箇所だけ字が変わっているところがあった。二重線で消されていた。消された下には「詠唱と発動の間に不自然な間がある。発動の方式に疑義あり」と読めた。その上に、別の手で「精霊術発動。方式については継続指導中」と書かれていた。
「これは?」
「エーレンバルトの授業の記録よ。バルネルト君が書いたものだけど、アーデン君の欄だけ、エーレンバルトが書き直したみたいね」
ヘルミーネは怒りを隠していなかった。その怒りの向き先がわかった。しかしその怒りを傍に置いたまま、消された文字の方を考えた。
詠唱と発動の間に不自然な間がある。
これは構造的な問題だった。詠唱の精霊術と対話の精霊術は、発動の仕組みが根本から違う。詠唱が精霊への命令なら、対話は精霊への依頼だ。その「依頼」のための一拍が、外から見ると「間」として映る。どれほど注意しても、なくすことはできない。なくせないが、わからなくすることはできる。
やがてヘルミーネが落ち着いて、また話してきた。
「とにかく、エーレンバルトが気にしているのはその「不自然な間」だと思うの。だから、それをなくす方法やわからなくする方法を聞きたいのよ。あなたならわかるでしょ、リセル」
そういうことね、と思った。
確かにわかる。そして、都合が良いとも思った。これを練習するリュート・アーデンの精霊術を、もう少し近くで観察できる機会が生まれるかもしれない。
「ええ、わかるわ。「不自然な間」をなくすことはできないけど、わからなくする方法はいくつかあるわ」
ヘルミーネがいつの間にか用意していたメモを広げた。
「まず、詠唱の最初のフレーズを発し始めるのと同時に、精霊に念じるのも始めること。詠唱が「きっかけ」に見えるようにするの。ここが一番大事なところよ」
ヘルミーネがメモにペンを走らせながら、「同時に、ね」と確認した。
「次に、発動のタイミングは詠唱の末尾に合わせること。詠唱が終わる前に発動させてはいけないわ。それと、発動後に精霊との対話を引き延ばさない。余韻が長いと不自然に映るの」
「それは発動した後の話ね」ヘルミーネがペンを止めて聞いた。
「そう」
ヘルミーネが一度見返し、頷いてから聞いた。
「これでエーレンバルトはわからなくなるの?」
首を横に振った。
「これを意識して精霊術を使えば、ほとんどの人は違和感を感じないはずよ。でも、注意深く見れば「不自然な間」はわかってしまう。これは詠唱と対話の精霊術の仕組みの違いから必ず起こるものだから」
「他に方法はないの?」
思わず口元が緩んだ。「あるわよ」と答えた。
少しもったいぶって間を置いた。
「精霊術の二重発動よ」
「二重発動?」
ヘルミーネは初めて聞いたといった顔をした。
「そう、二重発動。別々の精霊術を同時に発動させることね」そのまま続けた。
「例えば、火の精霊術を詠唱するふりをして発動させるとき、錯覚を起こす精霊術も同時に発動させるの。どうしても生じてしまう「不自然な間」を、認識させなければいいのよ」
「そんなことができるの?」ヘルミーネが驚きと怪訝の混ざった顔で言った。
「できるわ」と答えた。
私はできないけど、と心の中でつぶやいた。知識と理論としては知っているから問題はないわね、と自分を納得させた。
「大事なのは、同時であること。少しでもズレれば「不自然な間」は認識できてしまうわよ」
「……そうなのね」ヘルミーネが少し思考を手放したように見えた。
「それができれば、誰も認識できなくなるということよね? エーレンバルトも」
「認識できないわ。認識できるとしたら、対話の精霊術を感知できるような精霊と長く向き合ってきた者だけよ」
ヘルミーネが少し表情を揺らした。疑問と安堵が混ざっていた。
「そう。それを聞いて安心したわ」
ひと息ついて、お茶を飲んだ。ヘルミーネも持ってきたお菓子に手を伸ばした。説明が終わり、部屋の空気が少し緩んだ。
「明日、早速アーデン君に伝えるとするわ。一応聞くけど、同席する?」最後はいたずらっぽい顔で聞いてきた。
「しないわよ」
「そうね」とヘルミーネは笑った。
その後、ヘルミーネが持ってきたお菓子の話になった。どこで買ったのかを聞いたら、「秘密よ」と笑った。秘密にするほどのことでもないと思ったが、そう言えばまた笑うだけだとわかっていたので、聞かなかった。
「またね」と言って、ヘルミーネは帰っていった。
閉まった扉をしばらく見つめた。
床に広がったままの紙が目に入った。手を伸ばして一枚拾い上げたが、内容を読む気にはならなかった。また床に戻した。
「楽しみね……」
声が出ていたことに、少し後から気づいた。




