第55話 大聖堂
(リュート視点)
呼び出しの前夜。
部屋で一人、精霊に声をかけた。
——明日、大聖堂に行くことになった。よろしく頼む。
精霊からは、重いざわめきが返ってきた。拒絶でも警告でもない。いつもとは違う、落ち着かない重さだった。
翌日の午後、一人で大聖堂へ向かった。
王都の中心にそびえる大聖堂は、学院からも歩いて行ける距離にあった。大通りから横道に折れ、石畳が大聖堂に向けて緩やかに広がり始めるあたりから、精霊のざわめきが変わっていくのがわかった。
学院を出た時、精霊は自由で軽かった。どこにでもいて、呼べばすぐに感じられた。しかし道が変わり建物の影が増えるにつれて、その軽さが染み抜けるように消えていった。精霊が少なくなるのではない。いる。ただ、遠くなっていく——水に潜っていくような感触だった。
大聖堂の門をくぐった瞬間。
精霊が変わった。
遠さが質を変えた。遠さではなく——重さに変わった。長い年月のものが静かに積み重なって固まったような、歴史の堆積のような重さだった。慣れた重さ。諦めた重さ。ここにいる精霊は、そういう場所に長く置かれてきたのだと、体で感じた。
待っていたのは、灰青色の瞳をした女性の神官だった。無言で、奥へ案内された。
――――――
シュタイナー司教の部屋は質素だった。書類が積まれた机、二脚の椅子、小さな窓。余計なものは何もない。
シュタイナー司教はすでに椅子に座っていた。部屋に入ると、一度だけ視線を上げた。目が合った。何かを確認するような、静かな目だった。
「リュート・アーデン君ですね。どうぞ座ってください」
促された椅子に座った。机を挟んだ距離は短かった。
「今日お越しいただいたのは、単純なことです。精霊術の方式についてです」
「あなたが精霊術を発動させる方法は、教会が定める方式とは異なっています。それはあなた自身も理解していることでしょう」
「……はい」
「では、なぜ改めないのですか?」
少しの間、考えた。
「うまく説明できません」
「そうですか」
シュタイナー司教は表情を変えなかった。ただ一瞬、ペンを持つ指が止まった気がした。答えを聞きたいわけではない——改める意思があるかどうかを確かめていると感じた。
「教会が定める方式には理由があります。あなたも先日の講義で聞いたはずです。統制なき精霊術は人々を傷つける。正しき形を守ることが、あなた自身と周囲の者を守ることに繋がります」
「……わかりました」
「わかりました、ということは改める意思があると受け取ってよいですか?」
一拍置いた。
「努力します」
シュタイナー司教はその答えをしばらく咀嚼した。数秒の沈黙があった。「努力します」と「改めます」の差を、シュタイナー司教は聞き取っているはずだった。それでも追及しなかった。
「それで十分です。学院でも引き続きエーレンバルト先生の指導に従ってください。それだけです」
一礼して部屋を出た。
廊下に出てから、少し止まった。もっと長くなると思っていた。脅されるか、詰められるか——そういう場になると思っていた。
そうではなかった。それが、余計に掴みにくかった。
――――――
廊下には、案内の神官がいなかった。
来た道を思い出しながら歩き始めた。精霊はここでは遠かった。ただ、完全に消えたわけではない。大聖堂の重さの中で、かすかに感じられた。
曲がり角を一つ間違えたのか、見覚えのない廊下に出た。
引き返そうとしたとき、前方の扉が開いた。
出てきたのは二人の男だった。一人は黒い法衣に金の刺繍の入った老人。もう一人は重厚な外套を着た大柄な男だった。
二人はリュートに気づいていなかった。リュートは咄嗟に壁際に身を寄せた。
二人が廊下を歩いていった。声は聞こえなかった。法衣の裾が石畳を擦る音が、静かな廊下に低く響いていた。
そのとき、精霊が——動いた。
「揺れた」という感触ではなかった。大聖堂の中で慣れた重さとして静まり続けていたものが、二人の方から何かを感じ取って、根元から引いた。水が砂に吸い込まれるように消えていくような感触だった。精霊が遠のいたのではない。精霊が自分からそこを離れた。
恐怖に近い何か、と言えばそうかもしれない。しかしそれも正確ではない。もっと古い感触だった。出会ったことのない匂いを鼻が先に感知するような——理由より先に身体が判断するような、本能的な反応だった。
二人が角を曲がって見えなくなった。
しばらくその場に立っていた。自分の呼吸の音だけが聞こえた。
シュタイナー司教の警告より、今見たものの方が、ずっと重かった。
――――――
大聖堂を出ると、空気が変わった。
精霊が戻ってきた。しかし今日の精霊は、帰ってきながらも少し違う揺れ方をしていた。外に出ても、大聖堂の重さがまだ体のどこかに残っていた。
シュタイナー司教の言葉から、考え始めた。警告だったのはわかった。しかし脅しではなかった。「努力します」という答えを受け取って、それで十分だと言った。正しくあるよう求めているのか、諦めを待っているのか——どちらなのかがわからなかった。それが余計に重かった。
気づくと、廊下の出来事を思い返していた。あの二人のことが、頭から離れなかった。一人は大司教であることはわかった。もう一人はわからない。しかし精霊があれほど反応した。
精霊が反応した理由を考えようとして、言葉が出てこなかった。恐怖ではない、もっと古い、本能的な何か——教会は間違っている、とずっと思っていた。しかし今日感じたのはそれよりもっと大きい何かだった。言葉にはならなかった。
ただ一つだけわかることがあった。
このままではいけない。
王都の石畳が、夕暮れの橙に染まっていた。




