第52話 静かな始動
(アリシア視点)
クラリスと並んで寮へ帰っていた。リュートは、いつの間にかいなくなっていた。
クラリスと二人で、石畳を歩いた。いつもは会話が絶えないけど、今日は無言だった。
「さっきの講義、なんか引っかかるとこあったんだよね」クラリスが口にした。
「……そう?」
答えながら、足が少しだけ遅くなった。クラリスには気づかれなかったかもしれない。言えない、と思っていた。
「前にリュート君から聞いた、「精霊にお願いする」っていう話、あれってシュタイナー司教様の「今とは異なる形で使われていた精霊術」と何か関係があるのかな?」
「……どうなんだろうね」
少し間があった。石畳を一枚踏み越えるくらいの時間。
「でも、今とは違う精霊術かもしれないけど、それが災禍を引き起こしたとは限らないし……正しく使えば、大丈夫なんじゃないかな」
自分に言い聞かせるように答えていた。言いながら、何に言い聞かせているのかが、少しだけわかった。
「そうだね」クラリスは短く応えた。
また無言が続いた。歩きながら考えていた。シュタイナー司教様は、私たちのことを言ったのだろうか、と。
――――――
(アレクシス視点)
生徒会の椅子に戻り、しばらく動かなかった。
教会がこのタイミングで動いた——予想より、早かった。もう少し時間があると思っていた。間接的な圧力、全体への釘刺し。直接的な影響は今はない。しかし教会が次の段階の準備を始めたと見るべきだ。
問題はそれだけではない。教会が動けば、それに乗る貴族が出る可能性もある。顔色を窺って静観する者も出る。学院がどう動くかも変わってくる。
リュート・アーデン一人の話が、気づけば王国全体の力の均衡に触れ始めていた。
「いかがでしたでしょうか?」
ルーカスの声にすぐには反応しなかった。ルーカスも確認せず、ただじっと私を見て、反応するのを待っていた。
十分な時間が経ってから、立ち上がり、窓際まで歩いた。今にも雨が降りそうな空模様だった。
「私たちも少し動かなければいけないな。準備をお願いできるかな、ルーカス」
「承知しました。まずは何から始めましょうか?」
「そうだな……まずは、教会の動きを追おうか。もちろん今まで通りリュート・アーデンの動向も監視するよ。それから——貴族の動きと、学院の出方も」
ルーカスが静かに頷いた。
その先は、言葉にしなかった。
――――――
(ヘルミーネ視点)
シュタイナー司教を見送った後、学院長室の椅子に戻った。
去り際の言葉を思い返した。「どうぞ、よろしくお願いいたします」——ただの挨拶ではなかった。正しき形を持たない者を、学院として改めさせよ、という静かな圧力の置き方だった。シュタイナー司教が口にしたのは一言でも、その重さは長かった。
そういえば、リセルはいませんでしたね。まったくどこに隠れたのやら。まぁ聞きたくないでしょうから、しかたありませんね。
一度大きく息を吐いた。
話の内容は新しいものはなかった。ということは、この時この場所でこの内容をこの形で語ること自体が目的だったと考えるべきだ。
シュタイナー司教が生徒たちを見渡したとき——全員を見渡しているようで、彼を意識していた。狙いは彼、リュート・アーデン。
これは始まり。
学院を、生徒たちを守るためには、もう見て見ぬ振りをしてはいられない。
さて、それならこちらは——
――――――
(ユリウス視点)
その夜、自室で特別講義の提出物を書いていた。
講義の内容は子供の頃から知っていることばかりだった。何も迷う必要はない——そう思い、羽ペンを持っているのに、進まなかった。なぜ書けないのか、はっきりとはわからなかった。何かがひっかかっていた。だが、それが何なのかを考えようとすると、思考が別の方向に逃げた。
……書けない。それだけがわかった。理由は、やはりよくわからなかった。
「正しき形を持たなかった者」——シュタイナー司教様はあいつに向けて言った。明言したわけでも、態度に出たわけでもない。ただ、そうだとわかった。そして——かつて自分も、同じ言葉を使っていたことを思い出した。それが今、居心地が悪かった。その居心地の悪さに名前をつけるのは、やめておくことにした。
「貴族の誇りを忘れるな」父の教えが頭を過った。謝意は伝えた。しかし借りはまだだ。あいつは今、情報が寸断されている。話しておくことが責務だろう——そう思い至った。
では、いつ、どこで、どこまでの内容を?思考の渦に飲まれそうになったとき、机の上の提出物が目に入った。まずこれを片付けるか。
さっきまでペンが進まなかったのが嘘のように、羽ペンが動いた。
書き終えて読み返した。「正しき形を持たなかった者」について書くつもりだったのに、書いていたのはそれへの批判でも肯定でもなかった。
羽ペンを置いた。しばらく、書いたものを見ていた。
これでいい、という気がしてきた。
窓の外を見た。雲が晴れていた。星が見えるほどには。




