第44話 訪問者
(リュート視点)
精霊の暴走から、ひと月が過ぎた。
訓練場の外壁には、いまだ足場が組まれたままだった。爆発で抉られた石材の断面が空気にさらされ、修復を待ち続けていた。教会と学術院の視察が終わるまで、本格的な工事は始められないのだという。
学院の空気は静かに張り詰めていた。生徒たちの日常は少しずつ元に戻りつつあった。廊下では笑い声が聞こえ、食堂では食事の匂いが広がった。しかし教師たちの目元は、あの日から一様に引き締まったままだった。
視察の日、呼ばれていない生徒は寮で待機するよう指示が出た。
俺は自室の窓際に立ち、外をじっと見ていた。この角度からは訓練場も講義棟も見えなかった。それでも目を離す気にはなれなかった。
ユリウスのことが頭にあった。ユリウスはあの日から精霊術が使えなくなっていた。廊下で見かけるたびに、表情に焦りのようなものが見えていた。今日、ユリウスは呼ばれるだろう——当事者として。それがどれほど重いことか考えかけて、やめた。考えたところで、何もできない。
そっと意識を向けた。精霊はいた。いつものように空気の奥に気配があった。今日は静かで、乱れた気配もなかった。
「……まぁ、待つしかないな」
誰にともなく呟いて、窓枠から手を離した。
向こうで何が起きているのか、この窓からは何も見えなかった。
――――――
(精霊術学院 正門)
教会からの視察団を出迎えたのは、ヘルミーネとゲオルグだった。
先頭に立つルーフェンは、入学式の祈祷でも壇上に立っていた人物だった。黒い法衣に銀の縫い取り。静かに弧を描く口元が、圧力というより確認に来た者の穏やかさを漂わせていた。
「本日はご足労いただき、誠にありがとうございます。精霊術に関わる事案につきまして、学院として可能な限りの説明を尽くさせていただきます」
ヘルミーネが一礼した。
「学院長、そのお心遣いに感謝いたします。精霊の御業に関わる事案ゆえ、教会としても見過ごすわけには参りません。本日の視察は、あくまで真実を確かめ、必要な助言を行うためのものです。どうぞ、ありのままをお聞かせください」
視察団はまず訓練場に案内された。調査官たちが現場に散り、破損の状況を丹念に確認していく。床材が陥没した中心部、壁の抉れた跡。残っているのはそれだけだった。霊素の計測値は暴走前と変わらない。調査が進むほど、あの日の痕跡が消えつつある事実だけが明らかになっていった。
ルーフェンはひとしきり見回し、静かに踵を返した。その背中には、確かめ終えた者の静けさがあった。
――――――
(精霊術学院 講義棟)
聴取は講義棟の会議室で行われた。
高い天井、磨き込まれた長机。初冬の薄い日差しが細長い窓から差し込み、ルーフェンが座る側の机を横切っていた。ゲオルグが呼ばれ、向かいの椅子に座った。
「では、これより聞き取りを開始いたします」
前置きが終わると、ルーフェンは手元の書類に一度目を落としてから顔を上げた。
「授業開始時点で、何か異常をお感じになりましたか?」
「感じておりませんでした」
声は揺れていなかった。ルーフェンが軽くペンを動かした。
「異常をお感じになったのは、授業のどの時点でしたか?」
「バルネルトが詠唱を開始した直後です」
「その後、どのように対応されましたか?」
「静観しました。この授業は精霊術の暴発調査も兼ねておりましたので。その後危険と判断して詠唱を行いましたが、発現しませんでした」
ルーフェンはここで手を止めた。少しの間があった。
「発現しなかった理由は、何だとお考えでしょうか?」
「今思えば、精霊の暴走の影響かと」
「精霊が暴走に至った理由について、どのようにお考えでしょうか?」
今度はゲオルグが一拍置いた。視線がルーフェンの目の少し下——あごの辺り——に落ちた。
「……わかりません。ただ、術者が精霊を従えられるだけの技量を持ちえていなかったことが原因ではないかと推測しています」
「なるほど」
ルーフェンは何も表情を変えなかった。それが答えを引き取ったのか、記録しただけなのか、判然としなかった。
聞き取りは時間いっぱい続いた。
ゲオルグの後、リセルが呼ばれた。
入室したリセルは、フードを目深に引き下ろしたまま動かなかった。椅子までの数歩を、できるだけ顔を上げずに歩いた。座ってからも、両手をフードの縁に添えたまま、下ろさなかった。萎縮ではなかった。遮っていた。
ルーフェンはしばらく、何も言わなかった。ペンを持ったまま、リセルを見ていた。
「当日、記録担当として授業に参加されていたとのこと。精霊の状態に、何か変化をお感じになった瞬間はありましたか?」
ルーフェンの声は穏やかだった。
「……バルネルトの詠唱が始まってすぐです。計測値が急に上昇しました」
声が揺れていなかった。
「詠唱が始まる前の段階では、何か気になる点はありませんでしたか?」
フードの奥で、息が一瞬だけ止まった気がした。
「……ありませんでした」
ルーフェンは目を細めた。答えを疑っている目ではなかった。何かを確かめた、という目だった。
「わかりました」
退室するリセルの背中を、ルーフェンは最後まで目で追った。それから静かに手元の書類に目を落とし、何かを短く書き記した。
次にマリオンが呼ばれた。マリオンはドアを閉める前に一度廊下を振り返り、息を吐いてから入った。
そして最後に、ヘルミーネが呼ばれた。
「精霊が暴走したのは、なぜだとお思いですか?」
「わかりません」
ルーフェンの目をまっすぐに見たまま、ヘルミーネははっきりと答えた。
「推測でも構いません」
机の上に置かれたヘルミーネの指先が、ほんの少しだけ動いた。一瞬だけ視線が外れた。しかしすぐに戻った。
「……わかりません」
ルーフェンは間を置いてから、別の質問に切り替えた。




