第43話 波紋
(精霊術学院 学院長室)
学院長室に、ヘルミーネの声が響いた。
「どういうことですか! エーレンバルト先生! 生徒の安全が最優先だと言ったはずですよ!」
激しい叱責だった。ゲオルグはまっすぐヘルミーネを見ていた。
「申し訳ありません。想定外の事象が発生してしまい、対処しきれず、このような事態を引き起こしてしまいました」
頭を下げるゲオルグ。
「謝罪は結構です。どうしてこうなったのか、理由を教えてください」
ゲオルグは黙った。答えられなかった。焦りの表情が見え、うつむき出していた。
そのとき、扉がノックされた。「フェルウィンです」という震える声が聞こえ、入るよう促されるとリセルが入室した。
「先程の爆発の解析結果が出ました」
ヘルミーネとゲオルグがリセルを見た。ゲオルグの表情が安堵に変わった。
「結果を教えてください」
強い口調でヘルミーネが報告を求めた。
震える声でリセルが報告した。
「まず、試験前ですが、霊素には変化は見られませんでしたが、通常より高い精霊の活性を検出しています。次に、生徒が精霊術を発動するたびに精霊の活性が高くなっています。そしてバルネルトのとき、異常と言ってよいほど高い活性を検出しました。爆発の後、精霊の活性は収まり、通常よりも不活性の状態となっています。それは今も維持されています。なお、爆発の前後で火と土の霊素の減少が見られますが、精霊術によるものと考えられますので、気にする必要はないでしょう」
リセルが静かに結論を述べた。
「つまり、今回の爆発と、おそらくこれまでの異常な現象はすべて、精霊の異常な活性化——暴走と言って差し支えないかもしれませんが、これが原因と考えて間違いないと思われます」
沈黙が部屋を包み込んだ。
そのとき、再び扉がノックされた。
「クラウベルです」
「入ってください」
クラウベルが部屋に入ってきた。リセル、ゲオルグも視線を向けた。
「バルネルトが目を覚ましました。幸い外傷はありませんが、記憶の欠如と頭痛を訴えておりました」
「記憶の欠如ですか?」
ヘルミーネが厳しい顔で確認した。クラウベルはその表情にわずかに怯えながら、はいと答えた。
「詠唱を開始した後の記憶がないようです。話した限りでは、それ以外に記憶の欠如はないように思えました」
「頭痛の方は?」
「外傷はありません。おそらく精霊術の使用時に何かしらの影響があったのかと思いますが、受け答えはしっかりしておりましたので、いずれ落ち着くのではないかと。現在、救護教師が向かっておりますので、詳しくは彼女の診断を待ってからでも問題ないかと思います」
「そうですか」
ヘルミーネはそう言った。厳しい顔はまだ残っていたが、何かが緩んだように、椅子の背にそっと身をあずけた。
ヘルミーネはしばらく動かなかった。室内の灯りが机の上を柔らかく照らし、広げられた書類の端に淡い影を落としていた。その光の中で、学院長の指先が書類の端をわずかに押さえた。
「フェルウィン先生、精霊が暴走した理——」
声が出た。出てから、止まった。
続きは、わかっていた。リセルが計測してきたこと、この数ヶ月で積み上がってきた数字、そして繰り返し聞かされてきた精霊の状態——それらが指し示す答えは、明確だった。だが、その答えを口にするということは、この学院を支える教会と真正面から衝突することを意味する。精霊に感情がある。精霊は苦しんでいる。詠唱が枷である——それを公式に認めた瞬間、学院そのものが立脚する場所が崩れる。
「……いえ、何でもありません」
ヘルミーネは口を閉じた。背筋を伸ばし、三人に向き直った。
「疲れているところ申し訳ありませんが、三人で協力して至急、報告書にまとめてください。エーレンバルト先生は半壊した訓練場の修理の手配もお願いします」
そう言うと、再び背もたれに背を預け、目を閉じて息を吐いた。
三人は一礼して退室した。ヘルミーネは退室していく様子を薄目を開けて見ていた。最後に出たリセルと、ヘルミーネの視線が一瞬合った。リセルは何も言わず、扉を閉めた。
閉まった扉を、ヘルミーネはしばらく見ていた。
――――――
(グランツィリア大聖堂)
その日の深夜、グランツィリア大聖堂の一室に、ゲオルグが訪れていた。
石造りの廊下を抜けた先の小部屋は、深夜の静寂の中に燭台の光だけが揺れていた。この時刻の聖堂は音を吸い込むようで、ゲオルグの足音が妙に大きく聞こえた。
「こんな夜更けにどうされましたか? エーレンバルト先生」
その部屋の主が尋ねた。
「夜遅くに申し訳ございません。本日精霊術学院にて、精霊が暴走する事件があり、急ぎご報告に参りました、シュタイナー司教様」
「詳細は後日、学院長から直接または文書にてご報告なされるかと存じますが、報告すべき内容が別にございます」
「と、申しますと?」
「精霊が暴走した際、私もその現場におりました。精霊の暴走による精霊術の暴発を止めるために詠唱を行いましたが、精霊術が発現いたしませんでした。しかし、その暴走した精霊術から皆を守った生徒が一名おります。その生徒は詠唱もなく精霊術を発現させております。その生徒は——リュート・アーデンと申します」
「そのような事が可能な生徒が学院にいるのですか?」
「はい、在籍しております。今年の新入生でございます。学院で教える精霊術とは異なる精霊術を使用しているようでしたが、本日の精霊術は異質にございました。そのため、ご報告すべきと判断し、こうして参上した次第です」
「そうですか」
ルーフェンは少し考えた。燭台の炎が揺れた。
「ありがとうございます。エーレンバルト先生。今後も、リュート・アーデンの特異な情報がありましたら、都度教えていただけますか?」
「承知いたしました。それでは失礼いたします」
ゲオルグが部屋を出た。足音が廊下に吸い込まれ、消えていった。それを確認した後で、ルーフェンがつぶやいた。
「リュート・アーデン。異質な精霊術を使う少年……ですか。それは困りますね。猊下にお伝えを……いえ、まだ御心を煩わせるときではありませんね。もう少し状況を静観するとしましょう」
燭台の炎が揺れていた。
――――――
(精霊術学院 生徒会室)
数日後。生徒会室に入るルーカス。中にはアレクシスが自分の席に着いていた。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません、アレクシス様」
「いや、悪いね。急に呼び出してしまって。早速だけど、まずはこれを読んでみてくれるかい」
書類をルーカスに渡すアレクシス。
ルーカスは書類を受け取り、内容を確認した。読み終わると、焦りの表情で言った。
「アレクシス様、こちらはどうなされたのですか?」
「父上がこの前の一年生の実技で訓練場が半壊した際の報告書の写しを渡してきてね」
「陛下ご自身が……。ですが、これは……」
目を通しながら、ルーカスの顔から表情が消えた。
「そう、半壊の原因は精霊が暴走した結果の精霊術の爆発。あれだけの被害なのに教師・生徒に怪我人すらいない。それは別の生徒の精霊術で人的被害を抑えたから。報告書にはその生徒の名前は書かれていない。けれど、父上は直接報告に来た学院長に個別に聞いたみたいだよ。その生徒がリュート・アーデンだと。どういう生徒なのかと父上に聞かれて困ったよ」
「まさか。高度な無詠唱の精霊術を、彼が。しかもあれほどの規模の爆発を防ぐだけの力もあると」
「そう。彼がいなかったら大変なことになっていただろうね」
ルーカスの額に汗が流れた。
「それで、アレクシス様はこれから彼をどうされるおつもりですか?」
「何もしないよ。いや、まだできない、が正しいかな。この報告は教会にもされているからね。安易には動けないよ。当分は現状維持かな」
「承知いたしました。監視は強化しておきます」
「よろしく頼む」
アレクシスはそう言うと、席を立ち、窓際へと向かった。生徒会室の窓から外を見たまま、口を閉ざした。窓の外には秋深い空が広がり、風が枯れ葉を運んでいた。
リュート・アーデン。アレクシスはその名を口の中だけで繰り返した。
――――――
(ユリウス視点)
倒れてから数日が経過していた。体はもともと怪我もなく、頭痛も次の日には治まっていた。
だが、どうしても気分が晴れなかった。原因ははっきりしていた。あいつが僕の命を助けた。その事実がどうしても拭えなかった。
あの日、目が覚めた後、誰もいなくなってから救護室で精霊術を試みた。詠唱するが、何も起きなかった。
——あるはずのものが、なかった。
精霊が動き出す前の、あの感覚。詠唱の言葉を紡ぎ始めると、いつもならどこかで何かが動き出すような——あの確かな応答が、どこにも見当たらなかった。もう一度詠唱しても、やはり何もなかった。しんとした空白だけが返ってきた。
これが現実なのか。暴走したときの記憶がないという事実が、余計に恐ろしかった。自分の精霊術が自分の制御を離れた、その意味がようやく体に染みた。
それだけではなかった。幼少の頃から努力をしてきた。精霊術の知識や理論を学び、精霊契約をしてからは精霊術自体にも力を入れた。詠唱の精度、滑らかな詠唱、精霊の従属・命令のイメージ、誰よりも練習してきた、という自信があった。
父の言葉が浮かんだ。「貴族としての誇りを忘れるな」誇りとは何か。自尊心と誇りは違う。その言葉の意味を、初めて真正面から考えていた。
父に報いなければならない理由があった。それなのに、僕にもできないことをあの平民はできた。それが許せなかった。そこには羨望にも似た嫉妬があった。
許せない、と思った。でも同時に——自分の精霊術が応答しなくなったときに、あいつの土の壁がなければ僕はどうなっていたか、それがわかってもいた。
ずっとこの考えの繰り返しだった。
ふう、と息を吐く。いつまでもこうしていても仕方がないな。
「貴族としての誇りを忘れるな」
父の言葉がまた頭をよぎった。
自尊心ではない。誇り。自分に恥じない行いをすること——それが誇りなのだとしたら、今の僕は。
気分は乗らないが、仕方ない。この教えに背くわけにはいかない。
自室を出た。今はだいぶ前に今日の授業が終わっている時間だった。部屋にいるだろうと、あいつの部屋を訪ね、もう一度息を吐いて扉をノックした。
反応がなかった。もう一度ノックするが、やはり何も返ってこなかった。
まだ帰ってきていないのか。そう思っていると声がした。
「何か用か?」
振り返ると、あいつがいた。「ああ」とだけ答えた。
「とりあえず入るか?」
あいつが扉を開けて部屋の中を示した。
何も言わずに中に入った。部屋は質素だった。ベッド、机、椅子、収納棚。そして精霊術学院には似つかわしくないものがあった。木剣。
「ああ、これか。毎朝素振りをしているくらいだな。まぁ小さい頃からの日課だ」
「……そうか」
「それで、用っていうのは?」
「ああ、そうだったな……覚えてはいないが、あの日、僕を助けたとクラウベル先生から聞いた。それは感謝している。それだけだ」
そう言って、部屋を出ようとした。あいつは呆然としていた。
扉の前で止まった。
こうではない。これでは足りない。そう思った。
あいつに背を向けたまま、言った。
「……ありがとう、アーデン。助かった」
今度こそ部屋を出て、自室に戻った。
――――――
(リュート視点)
最近授業に出席していなかったユリウスが嵐のように部屋に来て、感謝を伝えて出ていった。
呆然と見ていた。
ただ、最後の言葉に、自然と笑みが出た。
「アーデンって言ったな、あいつ」




