第42話 対話
(リュート視点)
その日の夜。俺は寮を抜け出し、半壊した訓練場に来ていた。
夜の訓練場は静かだった。精霊のざわめきはまだ止まったままだ。月明かりが瓦礫を白く照らし、爆発で飛んだ石片が床に散らばっていた。焦げ臭さが鼻の奥に残った。応急処置の板が貼られていた壁は半ば崩れ、そこから夜風が吹き込んでいた。
入口には封鎖線が張られ、立ち入りが禁止されていた。布の端を持ち上げながらくぐる。布は冷たく、夜露を含んでいた。
そのままユリウスが倒れたところまで歩き、止まった。
「……いるか?」
精霊に呼びかけた。一瞬の静寂があった。
《≡☆≡✦》
胸の奥に、何かが流れ込んできた。ここにいる——という確かな存在の重さ。ずっと待っていた、というような焦がれる熱が混じっていた。
「そうか、いてくれたか。お前は火の上位精霊か?」
《☆☆☆!》
明るさが弾けた。驚きと肯定が一度に届いた。照れのような奇妙なはにかみが混じった感触だった。
「まぁそうじゃないと、いくら何でもあの威力は出ないよな」
《……≡✦≡▼✦▼》
後悔と焦りが交互に揺れていた。弁明を探している者の落ち着きのなさだった。
「いや、怒ってはいないさ。むしろ、俺が謝りに来たんだ。遅れてごめんな。結局あんなことさせてしまったよ」
《✧✧☆☆……▼》
感謝を含んだ明るさが届いた。それに暗さが続いた。
「気にしなくていいさ。お前は他の精霊を救うためにやったんだろ」
少し間があった。瓦礫の一つに腰を下ろして待った。見つかったら見つかっただ。待とう。
止まっていた精霊のざわめきが、ゆっくりと流れを取り戻していった。硬い拒絶でも嫌悪でもなかった。重さを帯びた何かが、ゆっくりと溶けて流れ出したような感じだ。
しばらくして、目の前が明るくなった。赤い光だった。確かな熱を持っていた。瓦礫の上に、炎のような、しかし炎よりずっと穏やかな光が浮かんでいた。
《▼▼……□□□》
重さがゆっくりと落ちていき、静かな肯定の感触が続いた。落ち着いた、というより——重かったものをようやく下ろせた、という感触に近かった。
「落ち着いたみたいだな」
《□□》
「そうか。それはよかった。……なあ、これからもあんなことになるのか?」
《≡≡……✦✦✦✦》
精霊が少し間を置いてから答えた。
わからないという感触と、避けられないならという重さが、一緒に押し寄せてきた。
「学院の、というか人間があんな詠唱での精霊術を使う限りはああなるってことだよな」
《□□》
「でもなんで急にああなったんだ? 詠唱はずっと昔からあったんだろ? ちょうど限界になっただけなのか? それとも他に原因があるのか?」
精霊が長い間を置いた。
《□□□……▼▼✦✦✦……◇◇◇✧✧》
体ごと包まれるような感触だった。静けさが先で、重さと疲労が続き、やがて軽やかさと温かさが届いた。最後に解放が続いた。
……精霊術は大した負担じゃなかった。でも、限界が近くて我慢していた。そこに俺が来て、甘えて、我慢をやめた——か。
《▼▼▼》
重い感触が転がるように来た。痛みを伴う、肯定だった。
「いいさ。しばらくは大丈夫ってことでいいのか?」
《□□》
今度は力強かった。腹を決めたような、前に向いた感触だった。
「安心したよ。また起きたら大変だからな。でも無理はするなよ。何ができるかはわからないけど、できることはするからさ」
《○○○》
温かさが返ってきた。ためらいのない、まっすぐな温かさだった。
「いいさ。そろそろ戻るよ。また来る」
《□□》
「……そうだ。今度クラリスっていう今まで詠唱でやっていた子に俺の精霊術を教える約束をしたんだ。気が向いたら手伝ってくれないか?」
《……》
しばらく沈黙が続いた。迷いとも、考えているともつかない静けさだった。
「……ダメか?」
《□□……○○◇◇○○》
淡々とした感触の後、それから温かみとともに、楽しみという感触が続いた。赤い光がわずかに揺れた。リュートが言うなら、ということなのだろうと思った。
「そうか、手伝ってくれるか。じゃあよろしくな」
《□□》
「じゃあ、おやすみ」
《□□□□》
穏やかな別れの温度だった。
立ち上がり、封鎖線をくぐって訓練場を出た。夜風が頬に触れた。
――――――
(精霊術学院 訓練場の外)
月明かりが瓦礫を照らす中、少し離れたところにひとつの影があった。リセルだった。フードで顔は見えなかったが、その身体はリュートが去っていった方向にじっと向いていた。
「リュート・アーデン、やっぱり面白いわね。あそこまで精霊と対話できる人間なんて初めて見たわ」
かすかな声だった。
ゆっくりと視線を戻し、リュートが座っていた瓦礫を眺めた。
面白い、という言葉では足りなかった。研究者として、あれだけ精霊と対話できる人間の存在は貴重だ——それはある。しかし今感じているのは、それだけではない気がした。あの精霊との距離。あの会話の温度。それが何を意味するか、言葉にはできなかった。
リセルは一度フードを直した。それから夜の暗がりに消えていった。
――――――
(ユリウス視点)
その夜、僕は目を覚ました。
ベッドから体を起こすと、激しい頭痛に襲われた。思わず頭を抑えた。痛みに耐えながら辺りを見渡すと、見覚えがある光景だった。
救護室か。どうして僕はここに?
記憶を遡った。たしか、実技の授業の試験で、火属性の基礎の精霊術の詠唱をした。そこまでは覚えていた。だが、その後が思い出せなかった。
扉の開く音がした。
「バルネルト君、目を覚ましましたか。よかった」
クラウベル先生だった。
「クラウベル先生、何があったんですか? どうして僕はここにいるんですか?」
「覚えてないんですか?」
クラウベル先生は焦りと驚きの表情を見せた。
「詠唱を始めたところまでは覚えています。ですが、その後の記憶はないです」
クラウベル先生は頭を抱えた。
「バルネルト君、君が詠唱を開始したら、炎が発現しました。それ自体は普通のことですが、その炎はどんどん大きくなっていき、信じられないほどの大きさになりました。最後にはその場で爆発しました」
「……大きくなった? 爆発した? 僕が詠唱したのは基礎の精霊術ですよ」
「そう。基礎の精霊術。ですが事実です」
「でも、僕は怪我もしていないですよ」
腕を広げ上半身を見せた。
「土の防御壁が、爆発から君を守ったのですよ」
「土の防御壁。それは誰が?」
「私でも、エーレンバルト先生でも、フェルウィン先生でもありません。エーレンバルト先生は詠唱を行っていましたが、精霊術は発現しませんでした。詠唱は聞こえなかったのです。いきなり土の壁が炎を覆いました」
聞こえなかった……無詠唱……まさか、あの平民が? いや、違う、そんなはずがない。
心の中で激しく否定した。
「思い当たる人がいるみたいですね。ええ、そうです。君を守ったのはアーデン君ですよ」
「そんな、どうして……」
わからなかった。どうして炎が大きくなったか、どうして爆発したか、どうして記憶がないのか。それ以上に——あの平民に助けられた。その事実が僕の心を動揺させた。
「それは、後で本人に聞くと良いですね。彼は君の命の恩人ということになりますから、感謝と一緒にね」
それを聞いて目を見開いた。
「今日はこのまま休みなさい。後で、救護の先生が来ますから、先生の指示に従ってくださいね」
クラウベル先生が救護室を出ていった。
まだ動揺していた。
助けられた。命を救われた。
その言葉が頭の中を駆け巡っていた。
あの平民が、僕を助けた。
認めたくなかった。でも事実だった。クラウベル先生が嘘をつく理由はない。
試験の前のことを思い出そうとした。詠唱を始めたところまでは覚えている。でもその後が出てこない。炎が大きくなったことも、爆発したことも、壁が出てきたことも——何も覚えていなかった。
僕が覚えていない間に、あいつが動いた。
どうして。
答えは出なかった。出るはずがなかった。あいつが何者かも、どうして助けたかも、僕にはわからなかった。
いつの間にか頭痛のことは忘れていた。




