第40話 崩れる均衡
(リュート視点)
次の日の朝、教室に入ると、ユリウスが席に着いていた。手を固く絡ませたまま、机の上に置いていた。気配に気づいたのか、こちらを一瞥してから視線を落とした。
どうしたんだ、昨日から。自分の席に着きながら、一昨夜の光景を思い出した。
一昨日の夜、精霊術の稽古を終えて寮に戻る途中、訓練場の近くでユリウスの後ろ姿を見た気がした。暗くてはっきりとは確認できず、そのときは深く考えなかったが……今思えば、あれは何をしていたのか。
しばらくして、廊下からアリシアが顔を覗かせ、手招きをした。席を立って廊下に出ると、クラリスもいた。廊下は朝の光が窓から斜めに差し込んでいて、二人の表情がよく見えた。クラリスは少し疲れているように見えた。だいぶ悩んだのだろう。
「昨日あの後、部屋に戻ってからも話したんだ」
アリシアが言った。
「ああ」
短く答えた。
「授業があるから、今までの精霊術は使わないといけないんだけど——私たちの精霊術が使えるようになりたいって。だから協力してくれないかな?」
アリシアが力強く、けれどどこか嬉しそうに言った。
クラリスを見ると、真剣な目をしていた。
「正直、まだ信じ切れたわけじゃないんだけど、昨日の話がホントなら、精霊に嫌われるより仲良くなれた方がいいでしょ」
クラリスの声は小さかったが、迷いを押し込めた強さがあった。
「だから、あたしにホントの精霊術を教えてくれないかな?」
力強くしっかりとした目でこちらを見てきた。
「俺が断る理由はないよ」
「使えるようになるから、頑張ろうな」
「うん! よろしくね!」
「私も教えるよ」
アリシアが笑顔で言った。
「授業が終わった後、夕食の時間までってことでいいかな」
提案すると、二人はそれでいいと言った。そろそろ時間だからと、三人で教室に戻った。
――――――
午後はマリオン・クラウベル先生の座学の授業だった。
窓から差し込む秋の陽が、石の床に長い影を作っていた。先生の声が淡々と響く中、内容を書き留めながら、半分は精霊のざわめきに耳を傾けていた。
ざわめきは、あった。いつもと変わらない重さだった。
《▼▲▲▲✦≡▲》
言葉ではなかった。悲しみと怒りと叫びが、一瞬で胸の奥に流れ込んできた。
息が、止まった。
そのとき、突然——
離れたところで、大きな爆発音がした。
床が揺れた。窓が震えた。机の上の羽根ペンが転がった。
教室内から悲鳴が上がった。授業が止まり、一斉に音がした方を向いた。窓の外に、煙が上がっているのが見えた。学院の敷地の中だった。
クラウベル先生は窓際まで行き、体を乗り出して外を確認した。「自習していなさい」と言い残して、慌てて教室を出ていった。
教室は騒然としていた。様々な憶測が飛び交っていた。
アリシアとクラリスが俺を見ていた。
「いや、その……」
言い淀んだ。
「どうしたの?」
クラリスが聞いてきた。
「わからなかったの?」
アリシアが苦しそうに言った。
「精霊のざわめきはずっと感じているんだけど、爆発音が聞こえる前に、一瞬、止まったの。それから……何か感じたと思うんだけど、それが何なのかわからなかった」
「リュート君も?」
「いや、俺は……」
歯切れが悪くなった。
「どうしたの?」
アリシアも聞いてきた。
「アリシアの言うとおり、一瞬ざわめきが消えた。その直後に来たのは——すごく短くて鋭い衝撃だった。悲しみを含んだ拒絶の怒りが、一瞬だけ、でもあまりにも強く叩きつけられた。そんな感じだった」
「じゃあ、この爆発は……」
クラリスが口を押さえてそこまで言った。
「ああ、そういうことだ」
目を閉じて俯いた。
胸の奥にあの感触がまだ残っていた。悲しみと怒りと叫び。精霊が、あれだけの力で押し返した結果がこれだった。
頭ではわかった。なのに、俯いたまま動けなかった。
そのとき、ラインハルトが立ち上がった。
「皆、静まってくれ。私たちが慌てていても何にもならない。今は落ち着いて、先生を待つんだ。大丈夫だ。ここはグランツィリア精霊術学院。皆が優秀であるように、先生方も優秀だ。心配はいらない」
クラスが落ち着いていった。まだ小声のざわめきは残っていたが、空気は変わった。
なるほど。あれが、人を動かすということか。声の張り方、立ち方、言葉の選び方。そのすべてがこの場を収めていた。
そうしているうちに、教室の扉が勢いよく開き、エーレンバルト先生が入ってきた。
「お前たち、今日の授業は終わりだ。各自、速やかに寮に戻れ。寮に戻ったら外出も禁止だ」
返事も待たずに教室を出ていった。各々が帰り支度をしながら教室を後にしていった。
クラリスに近づいた。
「すまないが、こうなってしまったら今日の精霊術の稽古は無しだな。寮でアリシアに教えてもらってくれるか?」
「うん、さすがに今日は無理だよ」
クラリスは笑顔で答え、「アリシア、お願いね」と言った。
「もちろん」
アリシアが笑顔で答えていた。
「悪いな」
もう一度謝って、じゃあまた明日と手を上げてから、二人から離れた。
教室を出る途中、ユリウスはまだ座っているのが見えた。朝見た時と同じように指を固く絡めて手を机に乗せていた。ただ朝と違い、何かを抑えるかのように小刻みに手が震えているのが見えた。
廊下に出て、歩きながら考えていた。
講義棟を出て少し歩いたところで、ふと足を止めた。前には寮に向かって歩いている生徒がいたが、後ろには人影がなかった。余計な目がないことを確認してから、向きを変え、爆発音がした方向へと静かに走った。
走っていると、人だかりが見えた。距離をとって止まった。
訓練場の前だった。壁の一部が崩れ、煙がまだ細く立ち上っていた。焦げた石の匂いがここまで届いてきた。
離れた場所から観察した。よく見えなかったが、壁に大きな穴が空いているようだった。
もう少し近づくか、と思い、一歩踏み出したとき。
後ろから、声が聞こえた。
「今はまだ近づかない方がいいわ。今日のところは寮に戻りなさい」
驚いて振り向く。声ははっきり聞こえたのに、誰もいなかった。
辺りを見渡すと、研究棟の方に消えていくローブの裾のような影だけが、目に残った。
大きな声ではなかった。でも、はっきりと聞こえた声だった。誰の声だ——思い返すが、思いつかなかった。
しばらく立ち尽くして、もう一度訓練場の方を見た。煙の細い筋が夕空に消えていく。それから、寮へと戻った。
――――――
(精霊術学院 生徒会室)
ルーカスが生徒会室に入ると、アレクシスが椅子に座ったまま窓の方を向いていた。
「ルーカス、午後の件、何か情報は掴めたかい?」
「はい。その時間、訓練場では三年生が共鳴精霊術の授業を受けていたようです。五名一組の計八班のうち、四班の共鳴精霊術が同時に暴発し、爆発を引き起こしたとのことです」
「そうか。彼は?」
「はい。その時間、一年生は座学の授業を受けており、彼がその授業を受けていたことは確認できております。この件、彼は無関係と考えてよいかと。ただ、帰寮の際、訓練場の近くには来ていたようです」
「ありがとう」
アレクシスはそう言うと、窓の外に目を向け、口を開いた。
「……リュート・アーデン、か。彼は……」
そこまで声に出し、口を閉ざした。窓の外の空は、もう夕暮れに染まっていた。
――――――
(精霊術学院 会議室)
学院の教師たちが集まり、午後の爆発への対応を協議していた。
「状況はわかりました。それで、霊素の方はどうでしたか?」
ヘルミーネが担当教師に向けて尋ねた。
「霊素ですが、異常な波長・量の変化は感知されておりません。平常時と同じ結果を示しています」
報告を聞いたヘルミーネの眉根がわずかに動いた。
「生徒の様子は?」
「爆発させてしまった生徒たちはショックを受けておりますが、もともと難しい共鳴精霊術でしたので。丁寧にケアをすれば問題はないでしょう」
「他の生徒たちは?」
「爆発直後は動揺しておりましたが、今は落ち着きを取り戻し、寮で静かに過ごしております」
「王宮には?」
「はい、現状、授業中の事故として報告しております。後日詳細を報告するようにとのことです」
「教会の方は?」
ゲオルグの方を見て確認した。
「王宮への報告と同じです。授業中の事故として報告しています。詳細が判明したら報告してほしいと言われております」
「ふむ」
ヘルミーネは少し考えてから言った。
「明日は休校とします。生徒たちの安全が最優先です。その上で引き続き、原因の調査と解析をお願いします」
「学院長、その調査の件で、一つ提案があります」
ゲオルグが発言した。
「明日、休校して調査・解析にあたるのは構いませんが、おそらく大きな進展は望めないでしょう。明後日、一年生で私の実技の授業があります。ここで詳細な調査・計測を行うのはいかがでしょうか?試験とでも言っておけば、一人ずつ発動させることも、複数の教師が立ち会うことも、それほど違和感はないかと。三年生の共鳴精霊術とは違い、一年生の精霊術では万が一の暴発があっても威力は低く、怪我にはいたらないでしょう」
ヘルミーネは他の教師たちの顔を見渡した。同意するような顔が並んでいた。
おそらく明日調査しても何もわからない。調査で何日も授業を止めるわけにもいかない。王宮にも教会にも、下手な報告はできない。
「わかりました。フェルウィン先生、クラウベル先生はゲオルグ先生の助力をお願いします」
三人が「承知しました」と返答した。
――――――
(リュート視点)
その日の夜、自室のベッドに仰向けで寝転がりながら、思い返していた。
精霊から頭に直接送り込まれてきた感情や想い、アリシアとクラリスには伝えた。ただ、伝えていないことがあった。
《▼▲▲▲✦≡▲》
あの感触を思い返した。確かに瞬間的な拒絶の怒りだった。ただその前に悲しみの叫びがあった。そしてその中に、言葉ではない意味だけがはっきりと届いた。
——リュート、助けて。
名前を呼ばれていた。確かに、そう叫ばれていた。
精霊が助けを求めていた。しかも俺を名指して。
俺に助けを求めるために、無茶をした。ということか?
腕を額に当てた。
助けを求めているなら助けたい。でも、どうしたらいいんだよ。
遅延、効果ズレ、反発、そして爆発。やはり現象としては悪化している。精霊は耐えているのか。だんだん耐えられなくなって、それでも耐えるために大きな力で押し返す。だから悪化している。
俺に気づいてほしくて、でも気づいてくれなくて。そして今日、爆発した。俺が原因でもあるか。
考えているうちに夜は更けていった。




