第39話 聴いていたもの
(リュート視点)
驚いて言葉が出なかった。
その沈黙を追い立てるように、ユリウスが一歩踏み込んできた。
「本当なのか? 答えろ」
「すまん、ちょっと驚いてしまって」
少し間をおいて、本当だ、と答えた。
ユリウスは何度も首を振った。認めないというような動作だった。
「ユリウス? どうしたんだ? そもそも、どうしてここに?」
そう聞くも、ユリウスは「平民には関係ない!」と言い捨てて、足早に立ち去った。
足音が遠ざかっていった。その後ろ姿は、何かを必死に振り切ろうとしているように見えた。追いかけても意味がないと思い直し、精霊術の稽古に移った。
この五ヶ月間、授業後に訓練場でユリウスを見たことは一度もなかった。
稽古を再開しながら、そのことが頭の片隅に残っていた。
――――――
(ユリウス視点)
廊下を足早に歩いていた。
そんなはずはない。認められない。僕の精霊術は完全だ。
頭の中でそう繰り返しながら、ふと自分の手のひらを見た。
指先が、震えていた。
精霊術をイメージする。いつもなら、この時点で精霊の応答がある。詠唱の言葉を紡ぐより前の段階で、何かが動き出す——あの確かな感触が。
だが——何もなかった。
空白だった。あるべきところに、何もなかった。
もう一度、試みた。胸に詠唱の前段階を思い描いた。精霊に向けて意識を向けた。やはり、何もなかった。しんとした空白だけが返ってきた。
ギュッと手を握りしめた。
違う。今日はちょっと調子が悪いだけだ。
そう自分に言い聞かせながら、僕は寮の部屋へと戻った。
――――――
部屋の扉を閉めると、静かだった。
もう一度、試みた。慎重に、丁寧に。いつも通りのやり方で。
返ってくるものは、なかった。
机の前に座った。羽根ペンが一本、インクが乾いたまま置いてあった。それをじっと見ていた。
今日はちょっと調子が悪いだけだ。
そう繰り返した。繰り返すほど、その言葉が空虚になっていった。
――――――
(聖霊術学院 研究棟)
ある研究室。学院の片隅に位置するその部屋は、夜の帳が降りた後もほのかな明かりが灯っていた。
机の上には複数の計測記録が広げられていた。フードは下ろされており、燭台の光が横顔をわずかに照らしていた。長い髪の隙間から、すっと細く長い輪郭が月明かりに浮かび上がっていた。指先が記録の紙の上を静かに辿っていた。
「そう。……もう、限界なのね」
かすかな声が、部屋の中に溶けていった。記録の紙が積まれた机の端には、数字が連なったいくつかの表が並んでいた。ここ数週間の変化が、数字の中に確かに刻まれていた。
「精霊たちも、もうこれ以上は耐えられない、か」
指先が止まった。静かな所作だったが、その手には確かな重みがあった。
「これも人の業よ。受け入れてもらいましょう」
窓の外に目を向けた。月明かりが差し込んでいた。
「……彼が来てしまったことで、均衡が崩れてしまったのね」
そう呟いて、記録の紙を静かに閉じた。燭台の炎が揺れていた。
――――――
(リュート視点)
その日の夜、自室のベッドで仰向けになりながら考えていた。
寮で起きた事件、クラリスの言葉、今日の出来事。一つずつ並べた。
クラリスの不安定さが一番早く出ているか。いや、回復が先か、そうすると——
回復が遅れる、発動が遅れる、威力が強くなる、障壁で水浸し、発動しない。
遅延、効果ズレ、不発……ひどくなっている。いや、偶然か。
まだ、わからない。でも、精霊は反発している。もしこれが続くようなら……あまり考えたくはないな。
腕を額に当て、目を瞑った。
精霊たちが苦しんでいるのは入学してすぐからわかっていた。でも今は、苦しんでいるだけじゃない。抵抗している。その抵抗が、少しずつ外に滲み出てきている気がした。
考えても答えは見えなかった。
どうすればいいんだ。
答えが出ないまま、夜は静かに更けていった。




