第37話 ざわめき
(リュート視点)
入学から、五ヶ月が過ぎていた。
王都グランツィリアの秋は、ブランデル領のそれとは違う種類の冷たさを持っていた。石造りの建物が夕日を受けて橙色に染まり、中庭を通り抜ける風が肌を刺すようになった頃、俺はここでの暮らしにすっかり慣れていた。慣れというのは便利なもので、どんな環境もそれなりに自分のものにしてしまう。石の匂いも、鐘の音も、食堂の喧噪も、今では当たり前の風景として体に馴染んでいた。
変わらないのは、日々の流れだけだった。
夜明け前に目を覚まし、中庭で木剣を振った。石畳は夜の冷気を吸ってひんやりしていて、素振りの度に白い息が出た。日が昇る頃に朝食をとり、座学と実技の授業が交互に続いた。昼食を挟んで午後の授業が終われば、夕食まで自由な時間があった。その時間を、俺は精霊術の自主稽古に当てていた。
朝の剣術の稽古では、誰かに見られているような気配を感じることはなかった。だが、夜の精霊術の稽古をしているときには、どこからかじっと見られているような感覚を覚えることが増えていた。振り返っても誰もいなかった。建物の影も、木の陰も、人の形はない。気のせいだと思おうとしたが、同じ感覚が何度も続くと、流石に引っかかるようになっていた。それでも、今のところは気にしないことにしていた。
アリシアは、俺と過ごす時間よりもクラリスといる時間のほうがずっと長くなっていた。廊下の向こうから聞こえてくる二人の笑い声は、もう当たり前になっていた。それはいいことだと思った。……でも、胸の奥が少しだけ冷えるような気がした。その気持は、誰にも言わずにそっとしまっておくことにした。
たまに、廊下や食堂で目が合うことがあった。そのときアリシアは必ず笑いかけてきた。俺も笑い返した。それだけで十分、だった。
学院の精霊のことが、気になっていた。
入学してすぐの頃から感じていたことだが、ここの精霊は村の精霊とは違う重さを持っていた。長い間、何かに抑えつけられてきたような、そういう重さだった。声をかければ反応はした。だが、慎重だった。動くことを恐れているような、そんな気配があった。誰かが詠唱を唱えるたびに、胸の奥でひびを入れるような感触が走った。精霊が苦しんでいるとわかっていても、それをどうすることもできずにいた。自分の稽古では必ず精霊にお願いする形にしていた。精霊たちも、そのときだけはのびのびとしてくれた。それが俺には嬉しかった。
――――――
その日の夕方も、訓練場の外れで精霊術の稽古をしていた。
土の精霊を呼んで、球体を作る。大きさを変える。転がす。くぼませる。崩す。また作る。そうした繰り返しの中で、精霊たちが楽しそうにしているのがわかった。気配が少し軽くなる瞬間が、俺には嬉しかった。空の端がほんのりと暗くなりかけていて、夕風が草の匂いを連れてくる。そういう時間だった。
ふいに、感触が変わった。
遠くの方で、精霊たちがざわめく気配がした。
手を止めた。球体がゆっくりと崩れ、土が地面に散らばった。
寮の方角だった。
距離があるせいか、ざわめきは小さかった。だが、はっきりとそこにあった。動揺とも驚きともとれる揺れが混じっていた。何かが起きた。精霊がそれに反応していた。
顔をしかめて、寮のある方を見た。暗くなりはじめた空の下、建物の輪郭だけが見えた。どうした、と呼びかけても、精霊たちはざわめくだけで答えてはくれなかった。
しばらくそのまま立っていたが、精霊のざわめきはじきに落ち着いた。大事にはなっていないだろうと判断して、稽古を再開した。
――――――
寮に戻ったのは、日が暮れてしばらく経った頃だった。
廊下が騒がしかった。
「何があった?」
近くにいた生徒に声をかけると、困り顔が返ってきた。
「あそこの部屋が水浸しになったんだよ。水属性の障壁を作ろうとしたら暴発したって話で。詠唱は間違えていないって本人は言い切ってるんだけど、先生には詠唱ミスで片付けられたみたい」
「怪我は?」
「本人は大丈夫。でも後片付けが大変そうで」
それだけ聞いて、自分の部屋に戻った。詠唱ミスなら、よくある話だ。その時はそう思っていた。
ベッドに横になって、天井を見上げた。
窓の外からかすかに風の音がした。冷えた空気が石の壁を通してじわりと伝わってきた。毛布を引き上げて、目を閉じた。
眠れそうな気がしたが、眠りに落ちる前に、ふと思い出すことがあった。
少し前のことだ。別の生徒が怪我をしたところを回復しようとして、精霊術を何度詠唱しても発動しなかったことがあった。何度か詠唱を繰り返してやっと発動したと言っていた。「疲れていたのかも」とその生徒は笑っていた。そのときも精霊のざわめきを感じていた。軽いものだったから気にはしていなかった。
そして今夜の水浸し。詠唱は間違えていなかったと本人は言い張った。
さらに遡れば、入学してすぐの頃、廊下から聞こえた破裂音。あれも詠唱ミスとして片付けられた。あのとき、俺とアリシアは「詠唱ミスじゃない」と感じていた。
目を開けた。天井が見えた。変わらない石の天井が。
この五ヶ月間、いくつもの出来事が「慣れていないだけ」「偶然だ」「疲れていたんだろう」として片付けられてきた。そのどれもが、精霊のざわめきと重なっていた。小さな出来事が、一本の線でつながっていくような感覚があった。
「……またか」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
精霊は何かに反発している。それは確かだった。ただ、今夜のような形で影響が出るのは、これまでの中で初めてだった気がした。あまり考えたくはないが、何かが変わり始めているのかもしれない。
そう思いながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
――――――
翌日の午後。エーレンバルト先生の実技の授業は、土属性の精霊術の詠唱練習だった。
秋の陽が訓練場の石畳に長い影を作っていた。一年生が集まり、指定された的に向かって一人ずつ詠唱していく。俺はいつものように、誰かが詠唱した結果の精霊術の効果を確認してから、詠唱しているふりをして精霊にそっとお願いした。精霊は応えてくれた。それが俺の学院での精霊術だった。
だが、その日、異変が起きた。
「エーレンバルト先生、詠唱しているのに精霊術が発動しません」
クラスの一人が声を上げた。続いて、また別の声。また別の声。気づけば、半数近い生徒が詠唱しているにもかかわらず精霊術が発動しない状況になっていた。
エーレンバルト先生は一瞬、戸惑ったように見えた。その表情は短かったが、俺の目には確かに映った。先生はすぐに表情を取り戻し、きっぱりと告げた。
「精霊へ命令するイメージが足りないからだ。もっと強くイメージしなさい」
それでも、結局その生徒たちは時間内に精霊術を発動させることができなかった。
ユリウスが発動できていない生徒たちを見て、淡々と言った。
「精霊を従えられていないから、発動しないなんてことになるんだ」
冷や汗をかいていた。
精霊が、必死に抵抗していた。授業中ずっと、精霊たちのざわめきは止まらなかった。命令されることを、はっきりと拒んでいた。生徒が「発動しません」と声を上げるたびに、その抵抗の気配が一段と強くなった。こんな規模の授業でここまで精霊が拒むのは初めてだった。
昨夜の水浸しの話が、頭をよぎった。
――――――
授業が終わった後、しばらく訓練場に残って精霊に話しかけた。返ってくるのは、いつものざわめきだった。言葉ではない。ただの揺れ。だが今日のその揺れには、抵抗する何かが混じっていた。
「今日のことを、わかってほしくてやったのか?」
答えは来なかった。ざわめきが少し揺れて、また静まった。
わからない。でも、今日起きたことが偶然ではないというのはわかった。
ふと、気になったことがあった。
今の精霊の様子は、入学前から続いているのか。それとも、何かをきっかけに変わったのか。
それはわからなかった。俺が来る前のことを知らない。だから確かめようもなかった。ただ、頭の隅に置いておくことにした。
訓練場を出ると、空はもう完全に暗くなっていた。




