第34話 無詠唱
(リュート視点)
数人の試験が続く中、俺は精霊に心の中で声をかけ続けていた。
大丈夫。俺はお前たちを苦しめたりしない。
繰り返しているうちに、胸の奥の揺らぎが少しずつ静まっていく感覚があった。精霊が、俺の声を拾っていた。
「リュート・アーデン君、前へ」
名前を呼ばれたが、気がつかなかった。
「リュート・アーデン君、いないのであれば失格としますよ」
それで気がついて、慌てて前に出た。笑いが起きた。ユリウスも残っていた。せいぜい無様な姿を晒すんだな、という目で俺を見ていた。
位置についた。
精霊に、静かに話しかけた。
大丈夫。俺はお前たちを苦しめたりしない。だからゆっくりでいい。少し力を貸してくれ。
精霊のざわめきが、ゆっくりと落ち着いていった。
詠唱は、ない。ただ手を前に構えた。
次々に、こぶし大の石が現れた。四つの的が、全部貫かれた。
一瞬、時間が止まったような静寂があった。
「無詠唱……」
試験官が羽ペンを落としながら呟いた。
それから周りがようやくどよめき始めた。誰だあいつは、という声が聞こえた。試験官が羽ペンを拾い、黙って記録した。俺は試験官に軽く頭を下げて、訓練場を後にした。
追いかけてくる足音がした。振り返ると、ユリウスがすごい形相で睨んでいた。
「おい、平民。さっきのあれはなんだ!」
「なんだも何も、ただの精霊術だけど」
「ただの、だと?僕より多くの的に当てて、さらに無詠唱で、ただの、だと?ふざけるな。不正をしたに決まっている」
「不正なんかしていない。いつも通りに精霊に頼んだだけだ」
「精霊に頼む?精霊術の基本は精霊を従えることだ。頼む必要などない」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
頼む必要はない。従える。命令する。
脳裏に、試験会場の光景がよみがえった。
詠唱が流れた瞬間の、あの欠ける感触。砕ける感触。積み重なる波。俺はあれを、精霊の苦しみとして受け取っていた。でも、今ユリウスの言葉を当てはめると、あれは何だったのか。
精霊を、命令で動かす。
だから精霊はあんなに——
あの感触は、従わされることへの痛みだったのか。詠唱とは、精霊にとって枷だったのか。
胸の奥で、怒りに近い何かが形を作った。どうにかしなければ、とも思った。ただ、どうすればいいかはわからなかった。
「話すことはない」
踵を返して歩き始めると、ユリウスが呼び止めようとしたが、俺は止まらなかった。
門のところでアリシアが待っていた。なんとも言えない表情をしていた。精霊のざわめきが気になっていたのだろうと思った。ここでその話をするのは危険な気がして、アリシアの手を引いて足早に宿へ向かった。
途中で振り返ると、案の定ユリウスが追いかけてきていた。ただ門を少し過ぎたところで止まり、じっとこちらを睨んでいた。
ため息を抑えられなかった。試験に合格して入学したら、あいつと同じ学年になるのか。
――――――
宿に戻ってから、アリシアと話した。
「精霊がおかしかったこと、私でも気がついたんだから、気づいてるよね?」
「ああ。試験中は気分が悪くなるほどだった」
「あれってどういうこと?」
「わからない。ただ……試験会場でユリウスって男が言っていた。精霊術の基本は精霊を従えることだって」
「精霊を従える……」
「そういうことなのかもしれない。詠唱は精霊に命令するためのもので、俺たちのやり方とは根本的に違う」
アリシアは何も言わなかった。
しばらく、部屋の中が静かだった。
「……精霊は、ずっとあれに耐えてきたんだね」
アリシアが小さく言った。答えなかった。答えられなかった。
試験会場で感じた、あの欠ける感触。砕ける感触。積み重なる波。あれが何十年、何百年と続いてきたのだとしたら——そこまで考えて、考えるのをやめた。今それを考えても、どうにもならなかった。
アリシアが静かに続けた。「入学したら、気をつけないといけないね。他にもいるかもしれないし」
「そうだな。ちゃんと精霊術を習えるのかどうかも、まだわからない」
「それで、試験はどうだったの?」とアリシアが切り替えるように聞いてきた。
「実技は……たぶん大丈夫だと思う。筆記も問題ないと思う。ホフマン神官とベルクマン神父に感謝だな。アリシアは?」
「精霊があれだったけど、実技はたぶん大丈夫。筆記も問題ないはずよ。じゃあ来月からは二人とも精霊術学院の生徒だね」
「まあ、三日後の結果次第だけどな」
バシッと背中を叩かれた。叩いた本人はそのまま自分の部屋に戻っていった。俺は目をぱちくりさせたまま、その背中を見送った。




