第33話 欠ける感触
(リュート視点)
試験当日の朝、宿の女将さんが「頑張んな」と送り出してくれた。
朝の空気が澄んでいた。アリシアと並んで学院に向かって歩く。「大丈夫か?」と聞くと、「ちょっと緊張してる。試験なんて初めてだし」とアリシアが答えた。確かにそうだった。
俺は試験というものにどこか懐かしさを感じていた。でも、それは言えなかった。「今まで勉強してきたんだから、大丈夫さ」と言うと、「じゃあ私もそう思うようにする」とアリシアが言った。顔から余計な緊張が抜けた気がした。
学院に着くと、受付にはすでに列ができていた。早めに来て正解だった。名前と出身を言い、ヴァルデンブルク様からもらった推薦状を見せる。受験番号の書かれた札を受け取り、控え室に向かった。アリシアは93番、俺は196番だった。
「隣で受付したのに、なんでこんなに離れてるんだろう」とアリシアが言った。「謎だな」と俺は答えた。
控え室は受験番号で部屋が分かれていた。「ここで一旦お別れみたいだな」とアリシアに伝えると、「そうみたいだね」と口を尖らせた。「大丈夫だ」と言って頭を軽く撫でたら、「子ども扱いしないで」とぷいっと振り返り、ツカツカと歩いていった。緊張はほぐれたようだった。
俺も気持ちを引き締めて指定された部屋に入った。
部屋には二十枚ほどの番号札が席に置いてあった。隣には、貴族と思われる男子が目を閉じて座っていた。
俺が席に着くと、その男子は目を開けて、横目で俺を見た。
「ちっ、平民が……」
聞こえてしまった。なにか言い返しても意味はないと判断して、黙って座った。男子はもう一度舌打ちをして、また目を閉じた。なんなんだ、と思いながら、部屋が静まるのを待った。
試験官が入室し、試験の流れを説明した。まず筆記、その後に実技らしい。実技が終わった者から順に帰ってよく、結果は三日後に発表されるとのことだった。
筆記の問題は読み書き、計算、理解力だった。全体をざっと確認して、これなら問題ないと判断した。ホフマン神官とベルクマン神父が出してくれた練習問題と、傾向がよく似ていた。ありがとうございます、と心の中で言いながら、最初の問題から順に解き進めた。
つまずくことなく早めに終わった。周りの様子を確認しようかと思ったが、不正していると思われるかもしれないと考えて止めた。残りの時間は机の木目を数えていた。
筆記の解答が回収される間中、隣の男子がずっと俺を睨んでいた。俺が早く終わったのが気に入らなかったのかもしれない。気づかないふりをして反対側を向いた。
移動して、実技試験の会場に着いた。
訓練場のような場所で、布張りの仕切りで区切られた小さな区画が横一列に並び、各区画の内側には的が四つ立てられていた。
試験官が説明を始めた。一人ずつ前に出て、好きな精霊術を的に向かって放つらしい。得意な術を全力で使うように、とのことだった。
試験が始まった。受験番号181番から順に呼ばれた。
181番の男子が息を整え、詠唱した。
「献身の灯よ、静謐の内に宿り、禁欲の枷をもって荒ぶりを戒めよ——」
その瞬間だった。
何か脆いものが、胸の奥でひびを入れた。音ではない。形のあるものでもない。でも確かにそこで、何かが欠けた。
精霊が、苦しんでいた。
俺は反射的に胸に手を当てた。目の前では小さな火の玉が現れ、的のギリギリに当たり、181番の男子が「よし」と喜んでいた。周りからちらほら拍手が起きた。俺はそれどころではなかった。ひびの感触が、胸の奥でまだ続いていた。
次の受験者が詠唱した。また、その感触が来た。今度はひびではなく、引き千切られるような揺らぎ。精霊が、詠唱が流れるたびに何かを削られていた。
俺が感じているのは、精霊の痛みだった。そう気づいた瞬間に、吐き気に近いものが込み上げた。詠唱が一つ流れるたびに、ここにいる精霊が一つだけ縮んでいった。その感触が波のように来て、俺の体の芯に積もっていった。
「顔が青いぞ、平民。あの程度の精霊術で顔を青くするようでは合格は無理だ。恥をかく前にさっさと帰るんだな」
隣の男子が声をかけてきた。
「いや、そういうわけではないんだけど」
また詠唱が始まった。また、欠ける感触。今度は少し大きかった。思わず口を引き結んだ。
「貴族の僕に向かってその言葉づかいはなんだ!」
「ごめん。ちょっとそれどころじゃなくて」
「貴様——」
「ユリウス・フォン・バルネルト君、前へ」名前が呼ばれた。
ふん、と鼻を鳴らして踵を返した。ユリウスという名らしい。
前に出たユリウスは、息を整えてから詠唱を開始した。
「献身の灯よ、禁欲の枷を解き放ち、調和を外れし奔流となれ。焼き尽くす炎として顕現せよ——」
その瞬間、これまでとは比べものにならない衝撃が来た。
割れる、という表現しか出てこなかった。薄い陶器を真ん中から真っ二つに割ったときの感触が、胸の奥で起きた。一つではない。連なるように、幾つもの何かが、音もなく砕けた。区画の中で炎が広がり、的を三つ一度に燃やしていた。受験者たちがどよめく。ユリウスが俺を見て、口角を上げた。
俺は俯いて、しばらく呼吸を整えることしかできなかった。




