第16話 邂逅 ー罠ー
(ラグナス視点)
それからさらに八ヶ月が経った。
光の届かない部屋があった。
かつて掌握していた元役人の屋敷の地下。石の壁は分厚く、外からの音を完全に遮断していた。燭台の炎が一本だけ揺れていて、その光が床に刻まれた魔法陣の紋様を照らし出すたびに、影が壁に伸び、また縮んだ。
陣の大きさは、ヴァルトが以前に見つけたものの四分の一ほどだった。小さい。だからこそ都合がいい。隠せる。椅子の下にも、床板の下にも、どこにでも仕込める。それでも機能する——それが今日の確認事項だった。
私は炎の方を向いたまま、動かなかった。
傍らにラザトが立っていた。少し離れた壁際に、他の部下が数名、声も立てずに控えている。部屋の中は、燭台が揺れる音だけがあった。
「想定通りの動きをしたな。これで最終実験も問題なし。ようやく完成と言っていい。これで私が魔王になるために邪魔な人間、不要な人間、危険な人間を排除できる。私こそがこの気高い魔界の王に相応しい」低く、静かな声だった。
「おめでとうございます」ラザトの声に安堵がにじんでいた。
「まずはヴァルトを人界に落とす。あいつは危険だ。魔界であれば戻ってきてしまうかもしれない。人界がちょうどいい」私は振り返らなかった。「あとはどうやってあいつを罠にかけるか、だ」
ラザトが一歩前に出た。耳元に近づき、低く言った。
「ヴァルトは行方不明事件を追っています。それを利用するのが良いかと。わざと証拠になりそうなものを残し、接触させます。そして呼び出した場所に魔法陣を仕掛けておき、ヴァルトがやってきたところで、発動させます」
私は少し間を置いた。口の端が上がった。
「いいだろう、そうするとしよう。行くぞ」
二人が部屋を出ていった。残された部屋の床で、刻まれた紋様がしずかに照り続けていた。燭台の炎だけが揺れていた。何も知らない顔をして。
――――――
(ヴァルト視点)
行方不明の報告は、翌日に届いた。
今回は遺留品があるという。これまで遺留品が残ったことはなかった。最初から違和感があった。おそらく罠だ。しかし、ラグナスに直接接触できる機会を手放すわけにはいかなかった。動かなければ証拠は掴めない。証拠がなければ何も終わらない——それはずっと変わらなかった。
他に手はないか、と考えた。ガルディス兄上に相談する。ヴェルザリア姉上を経由する。あるいはもう少し証拠が揃うまで動かない。どれも考えた。一通り並べてから、それぞれ選べない理由を確認した。これ以上待てば証拠は消える。接触の機会は次にはない。動かなければ何も終わらない。
それはずっと変わらなかった。
机の上の報告書を閉じた。閉じてから、少しの間、手がそこにあった。胸の中で何かが静かに冷えていた。それが何なのかは調べなかった。
罠の可能性を頭に入れながら調査を行うと、遺留品はラグナスに繋がるものだった。
話がある旨の手紙を送り、警戒を保ちながら、ラグナスからの連絡を待った。
連絡は来た。ただ、場所が指定された。行方不明となっている元役人の一人が住んでいた屋敷だった。
屋敷に近づくと、広間の床に転送の魔法陣が描かれているのが見えた。大きな魔法陣だった。中に入りながらそれを視野の隅に収めた。
壁の陰に、ラグナスがいた。一人掛けのソファに、ゆったりと座っていた。視線と顎の動きで向かいのソファを示す。俺は座った。
「来たか」
「場所を指定されましたので」
ラグナスは笑った。幼い頃より確かな笑い方だった。何かを達成した余裕が見える、そんな笑い方だ。
「行方不明事件に関与していますか?」
「している。むしろ主導的な立場だ」
あっさりと認めた。隠す気がなかった。これまでの全てについても——そうだ、という答えが返ってきた。行方不明になった者はどうなったか。
「不明だ。戻ってこないということはそういうことだろう。尊い犠牲だ」
「不明とはどういうことでしょうか?」
「転送した。どこに行ったかはわからない」
「転送ですか。この床の魔法陣ですか?」
「そうだ」
「目的は何ですか?」
「転送の魔法陣を掌握すれば、邪魔な奴らを飛ばせるだろ」ラグナスは口の端を上げた。「お前のようにな」
部屋の奥で、何かが動く気配がした。発動の準備が整ったという合図だろう。
広間の大きな魔法陣が光り始めた。
俺は位置を確認した。魔法陣の外にいる。床に描かれた術式の範囲には入っていない。
しかし、ラグナスの表情に余裕があった。それが引っかかった。
部屋全体に魔力が満ちていた。濃い。細かな探知ができないくらいに。
ラグナスの視線が、一度、下に移動した。俺が座っているソファの足元を、見ていた。
「お前は優秀だ。だからこそ、ここで消す価値がある」
気づいた瞬間、立ち上がろうとした。
間に合わなかった。
ソファの足元から光が滲み出た。広間の大きな魔法陣よりずっと小さな、隠されていた術式だった。大きな魔法陣は偽装だった。本命は、これだった。抜け出そうと手を伸ばすと、光の膜が弾いた。体が動かない。阻害と拘束の術式まで組み込まれていた。
「くっ……こう来ていたか」
ラグナスはソファから立ち、一歩近づいた。
「さよならだ、弟よ」
憎しみではなかった。怒りでもなかった。ただ片付けものを終えた人間の、静かな声だった。ラグナスの中で俺はもう、会うことのない人物だった。
俺はラグナスを見た。口の端がほんの少しだけ動いた。
「やはりそうだよな」
それだけ言った。
光が強くなった。体が動かない。意識が薄れはじめた時、なぜかエドのことが浮かんだ。まだ、終わっていないことだった。
上空に光の柱が伸びた。意識が薄れていく中で、城の方角を見た気がした。遠くに見える塔から、一つの灯りが静かに消えていくのが見えた気がした。
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