第13話 予兆 ー歪みの中でー
(リュート視点)
レンツ領に着いたのは、出発の翌日のことだった。
被害は聞いていたより大きかった。
南と西に面した農地が広い範囲で焦げていた。建物の一角が崩れていた。
石が散っていた。煙はもう上がっていなかったが、焦げた匂いが風に乗って漂っていた。道端に倒れている者がいた。領民が、それを静かに運んでいた。
ガレス様が顔をしかめた。父さんは何も言わなかった。
俺は周囲の精霊の気配を確かめた。
精霊が少なかった。焦げた土の上に精霊の輪郭が見えなかった。その場所から離れたところにだけ、かすかにある。まるで何かを避けているようだった。
ヴァルデンブルク様の軍はすでに布陣していた。整然とした陣形だったが、端が崩れていた。交代で休息を取っている者がいて、皆疲れていた。
「着いたか」とヴァルデンブルク様の副官が言った。
「助かる。あれは強い。どう戦えばいいのかわからない」
迷い魔の位置を聞いた。副官が東の林の方を指した。
気になることがあった。
被害は南と西に集中している。東側は無傷だった。辺境伯の布陣が東側に集中していることは聞いていたが、それだけでは説明がつかない気がした。精霊が避けているのは東の方向ではなく、あの林縁のあたりだ。東への被害がないのは、別の理由がある。それが何なのかは、今はわからなかった。後で考えよう、と思って、自分でその問いに印をつけた。
「リュート、わかるか」ガレス様が聞いてきた。
「少し確認させてください」と俺は言った。
土の精霊に聞いた。
「あそこで何が起きている?」
《≡▼≡✦▼▼≡✦》
歪んでいる。嫌。おかしい。感触が複数重なって来た。精霊にしては珍しく、まとまっていなかった。一つの言葉に集約できない感触だった。
「精霊たちが避けている。何が嫌なんだ?」
《≡≡≡……▼✦▼……☆✦☆≡》
わからない。怖い。でも普通じゃない。そういう感触だった。「普通じゃない」を精霊が感じるということは、精霊の認識の外に何かがある、ということだ。精霊が判断の基準を持てていない。
「もう少し近づくぞ」とガレス様が言った。
「はい」と俺は答えた。
「注意しろ」と父さんが言った。
――――――
前線の手前まで来た時、林の影から何かが出てきた。
人の形をしていた。ただ、形が安定していなかった。輪郭が滲んでいた。周囲の空気が、その存在を中心にして別の速度で動いていた。風が来ているわけではなかった。ただ、そこだけ空間の動き方が違っていた。
攻撃が来た。
音もなく、炎が、壁のように。
俺は精霊術を展開した。土を前方に押し固め、盾の形を作った。衝撃があった。土の盾が弾け飛んだ。破片が後方に散った。
「伏せろ!」とガレス様が叫んだ。
間に合わなかった。破片が一人の肩を打ち砕いた。
地面の至る所が抉れていた。
俺は林縁の方を見た。
盾が弾け飛んだ瞬間の感触が、残っていた。力が強かったからだけじゃないと思った。当たった瞬間に、何かがおかしかった。土は普通の衝撃なら割れる。あれは割れたのではなく、弾かれた。それも一定の方向ではなく四方に。まるで押さえていた空間そのものが歪んだかのような弾け方だった。
「精霊が理解できないと言っています。あの攻撃が当たった瞬間、土じゃなくて、別の何かに触れた感じがしました。力の強さの問題じゃない」
「どういうことだ!?」父さんが聞いた。
「まだわかりません」
今のままでは駄目だ。力で押さえれば、押さえた分だけ反発が来る。あの弾け方からすると、押さえることを無効化するだけの何かが、あの迷い魔にはある。
では、どうする。
以前、森で使った光を思い出した。その場に何かが満ちた感触を体が覚えていた。あの質の何かが今必要だと感じた。
押さえるのではない。満たす。
「別の方法を試します。精霊術で拘束します。性質を変えて」
「できるか?」ガレス様が言った。
「やってみます」
父さんが「合図をくれ」と言って、横に展開した。
――――――
手のひらを上に向けた。精霊たちに意思を流した。
目的が違う。押さえるのではない。光の質で満たす。外から来るような、向こう側から差し込むような。体の中から押し出すのではなく、精霊たちが運んでくるものを受け取って前に向ける。
精霊たちが応えた。
足元から始まった。地面の精霊が動いた。次に遠くにいた精霊たちが同じ方向を向いた。複数の感触が俺の手のひらに集まってきた。熱くはなかった。痛くもなかった。ただ、何かが通っていった。それが手のひらを出て、前に広がった。
光は見えなかった。俺には見えなかった。
ただ、何かが満ちた。
空気が変わった。音が止まるほどではなかったが、何かが静かになっていく感じがあった。迷い魔の動きが徐々に止まっていった。滲んでいた輪郭も、少しずつ定まっていった。
「今!」と俺は父さんに向かって声を上げた。
父さんが走った。
足音が地面を叩いた。距離が縮まるのが気配でわかった。迷い魔は動かなかった。拘束が効いている。父さんが踏み込んだ瞬間の気配があった。
それから、短い衝撃音が一つだけした。
静寂が落ちた。
父さんが戻ってきた。俺と目が合った。何も言わなかったが、頷いた。それで十分だった。
俺は手のひらを閉じた。精霊術を解いた。体が急に重くなった。地面に立っている感覚が戻った。空気の匂いが戻った。
問題はその後だった。
迷い魔が倒れた瞬間、空気の質が変わった。
精霊の感触だ。空間にひびのようなものが走った、という感触が来た。精霊たちが一斉に揺れた。目に見えるものではなかった。ただ、確かに何かが走った。
「下がれ」と俺は言った。
全員が後退した。
ひびが広がった。止まった。縮まった。
少し間があった。
「……戻った?」
また伸びた。今度は一瞬だけ。すぐに引いた。
それから、迷い魔がいた場所が空白になった。
形が消えた。迷い魔だけではなかった。周囲の空気ごと、霊素ごと、何かが消えた。
痕跡だけが残った。焦げた土と、静まり返った空気と。
その場にいた全員が、動かなかった。
ヴァルデンブルク様が近づいてきた。戦場を長く経験してきた人間の顔で、周囲を見渡してから俺を見た。
「見事だった」
それから声が変わった。答えを求めているわけではないのに言わずにいられない、という声だった。
「……あれは、なんだったのだ?」
ガレス様が「リュート、どうだ?」と見てきた。俺はヴァルデンブルク様に「わかりません」と答えた。
「わからないか。……そうだな、わかる者はいないだろうな」
ヴァルデンブルク様はそれ以上何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
頭の中では、複数の問いが立っていた。空間に走ったひびは何だったのか。霊素ごと消えるということがどうすれば起きるのか。精霊に聞いた。精霊もわからなかった。
それと、もう一つ。
印をつけておいた問いが、まだ解けないままだった。東側の被害がなかった理由。あの一点だけが、何も答えのないまま残っていた。
精霊がわからないことがある、ということは知っていた。ただ、今日のそれは種類が違った。問いに答えられないのではなく、問い自体が精霊の認識の外にある——そういう感触は、今日初めてだった。
――――――
帰路についた時、精霊のざわめきは変わっていた。
嫌な感じではなくなっていた。不安でもなかった。異質な何かに対して、どうしたらいいかわからない、というざわめきだった。答えのない問いの前に立っている、という感触に近かった。
俺にも、わからなかった。
領に帰ると、アリシアが最初に「怪我はない?」と聞いた。「ない」と答えた。スーリィが飛びついてきた。母さんが「おかえり」と言った。エリオット様と兄さんが待っていた。
「どうだった?」と兄さんが聞いた。
俺は少し間を置いた。
「迷い魔は倒した。でも、わからないことが残った」
兄さんは何か言いかけて、俺の顔を見て、やめた。
「そうか」とだけ言った。
その夜、精霊のざわめきは続いた。
霊素のバランスが、どこかで変わっている。精霊たちはそれを感じているが、どうしたらいいかがわからない。そういう感触だった。
俺にも、まだわからなかった。
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