第12話 予兆 ー初陣の残響ー
(ヴァルト視点)
二年が経っていた。
仕事の量は増えていたが、それを重いとは感じていなかった。量が増えたなら仕組みを変えればいい。仕組みを変えれば時間が生まれる。生まれた時間で次の改善をする。その繰り返しだった。
午前と午後の大半は政務だ。ヴェルザリア姉上から引き継いだ書類管理の仕組みは、今では自律的に動いている。俺のやることは点検と微調整だ。問題が起きにくい構造にした。起きても早期に発見できるようにした。それで足りている。
空き時間には魔法の訓練をする。火の制御はもう問題ない。今は水と風の適性を確かめながら、属性を広げている。使える手札が増えるほど選択肢が増える。それだけのことだ。
ラグナスについては、情報を集め続けている。表面は静かだった。だが、何かをしているという確信は消えなかった。それが何なのかを特定できていなかった。
それがこの二年の中身だった。
――――――
父上に呼ばれたのは、秋の始まりのことだった。
玉座の間ではなく、執務室だった。父上は書類を見たまま言った。
「レグナの遠征に同行しろ」
「わかりました」
「初陣だ。指揮系統はレグナの下に入れ」
「はい」
それだけだった。父上は再び書類に意識を戻した。俺は礼をして部屋を出た。
廊下を歩きながら、少し考えた。
初陣。魔界においてそれは形式的な意味合いが強い。実際の戦闘能力の確認というより、陣営の中でどう動けるかを見る機会だ。父上がレグナ兄上の遠征に俺を送る意図は一つではないだろう。見せることと見させること、両方が含まれているはずだった。
問題は、ラグナスの動向から目が離れることだ。
だが、命令は命令だった。
――――――
レグナ兄上のところに挨拶に行ったのは翌日のことだった。
「後方に置く。前には出るな。初陣だから初撃だけ任せるが、以降の戦闘は俺がやる。お前は見ていろ」
レグナ兄上の声に刺はなかった。ただ決定事項として言っていた。
俺は頷いた。レグナ兄上を見た。
体格がある。動き方に無駄がない。声の出し方が安定している。次期魔王の最有力候補としての振る舞いに、慣れ切っている人間だ。それが演技なのか本質なのか、まだわからなかった。演技にしては自然すぎるし、本質にしてはあまりに一つの形にしか見えない。
「交渉の余地はありますか」と俺は聞いた。
レグナ兄上が俺を見た。
「反抗部族との交渉を試みたことはありますかという意味です」
「武力で従わせる。それが最も明確な言語だ。曖昧なやり取りに時間を使えば、こちらの損害が増える。それだけのことだ」
俺は「わかりました」と言った。
間違いとは言えなかった。ただ、それが唯一の正解かどうかも、わからなかった。力を見せた上で交渉する方が短期間で済む場合もある。レグナ兄上の判断は論理として成立している。
ただ、腹の底の何かが、それで終わることを嫌がっていた。
――――――
出発までの四日間、俺は兵站の帳簿を借り受けて確認した。食料の配分。魔石の携行量。移動ルートと日程。三つの無駄を見つけた。修正案を担当者に提案した。一人は最初面倒そうな顔をしたが、論理を説明すると受け入れた。残り二人は最初から話を聞いた。
兵士たちとも話した。どんな戦場に向かうのかを聞いた。反抗部族がいる山間部。地形は険しいが魔法が通りやすい。地下に空洞が多いため足場に注意が必要だということを、老兵の一人が教えてくれた。子供に話しかけるような顔から始まって、話しながらだんだん普通の顔になった。
「何年戦っているんだ?」
「三十年でございます。最初は恐ろしゅうございました。今は恐ろしくはございません。ただ、終わってほしいと存じます」
それを聞いて、少し考えた。三十年。その時間の長さと、終わってほしいという言葉の間にある何かを、俺はまだうまく整理できなかった。
――――――
出発から三日で、現地に着いた。
盆地の入り口だった。両側を崖に挟まれた道の先に、反抗部族の集落がある。斥候の報告では防衛の準備はあるが数は多くないとのことだった。整列した部隊の前で、レグナ兄上が俺の方に来た。
「先制攻撃だ。中心部に一撃入れろ。それが終わったら後ろで待機していろ」
俺は集落の方を見た。
建物があった。人がいた。炊事の煙が上がっていた。反抗、というのだから何かに反抗している理由があるはずで、それが何なのかを俺は知らなかった。聞く時間も、今はなかった。これから俺の魔法がそこに落ちる。
「ヴァルト」とレグナ兄上が言った。
「はい」
手のひらを向けた。火の属性を引き出した。形を作らず、圧を作った。一点に集中する形。これまでの訓練の中で、対象物に向けて放ったことは何度もある。ただ、その対象が建物だったことも、人がいる場所だったことも、一度もなかった。
解放した。
炎が走った。
爆発音が盆地に響いた。崖に跳ね返って、二度目の音が来た。土煙が上がり、建物の一部が崩れた。叫び声が、距離を超えて届いた。
俺は手を下ろした。
頭の中が、奇妙なほど静かだった。感情が出てこなかった。出てこない、というより、どこかにしまわれた気がした。これを感じるのを後回しにするということを、体が勝手にやった。
その後の戦闘は短かった。部隊が突入し、交戦した。反抗部族の抵抗は続いたが、数と魔力で押し切った。俺は後方で見ていた。
戦闘の中で、老兵が倒れるのが見えた。
助けに行けるような状況ではなかった。戦闘が終わった時、その場にいた者の一覧を俺は頭の中で確かめた。老兵の名前が、そこになかった。……ただ、それだけだった。
――――――
帰路は三日かかった。
一日目は何も感じなかった。
二日目に、手のひらを見る回数が増えていることに気づいた。特に理由はなかった。ただ、気づいたら見ていた。
三日目に、叫び声のことを考えていた。距離を超えて届いた、あの声のことを。俺の魔法が走った後に来た声だ。誰の声だったのかはわからない。でも、誰かの声だったことはわかっていた。
効率として言えば、交渉の方が損害は少なかった可能性がある。そう思った。感情としてではなく、計算として。ただその計算の中に、老兵の不在も含まれていた。
「終わってほしいとは思う」という言葉が、頭の中に残っていた。
三十年続いて、それでも終わってほしいと思いながら戦っていた人間が、終わらなかった。
腹の底にしまわれていた何かが、帰路の三日間でどこかへ移動した。感じたのか感じなかったのか、それもよくわからなかった。ただ、以前と同じ場所には、もうなかった。
――――――
城に帰ったのは、出発から七日後だった。
執務室に戻ると、ヴェルザリア姉上が処理しておいてくれた書類の束が机の上にあった。一番上に、一枚の報告書が置かれていた。
遠征から帰った直後に老兵のことを一度考え、それを抑えてから報告書に向かう。
報告書を読んだ。
二年前に俺が帳簿の不正を指摘した結果、処分された元役人のうち数名が、行方不明になっているという。最初の失踪が約三ヶ月前。最新が三日前。間隔は僅かに長くなっていた。
俺は少し間を置いた。
一人が消えることはある。だが複数の、共通点のある人間が間隔を空けて消える。これは偶然ではない。
書類を机に置いた。窓の外を見た。夜の空だった。
明日から調べる必要があった。
手のひらに炎を出した。深い緋色の球。完全な球体。静止した。
揺れた。
俺が揺らしたわけではなかった。
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