第11話 予兆 ー揺れる空ー
(リュート視点)
二年が経っていた。
振り返ってそう気づく、というより、ある朝の稽古中にふと思い当たった。今日で何度目の素振りになるんだろう、と数えかけて、やめた。答えが出ても、何かが変わるわけではない。
日課は固まっていた。
午前は剣術だ。裏庭の練習場で、父さんの号令に合わせて木剣を振る。兄さんは二年でずいぶん変わった。動きに無駄がなくなって、踏み込みの音が重くなった。俺も変わったと思うが、それがどの程度なのかは自分ではよくわからない。父さんが指摘する箇所が減った。それが答えだと思っている。
午後は勉強と精霊術だ。自分の訓練をしながら、アリシアに精霊術の基礎を教える。
もっとも、この二年で「教える」という言葉の意味が変わった気がしていた。
精霊に関することは、説明できることが少ない。見え方も感じ方も、精霊との距離の縮め方も、言葉にしようとすると何かが欠けた状態で伝わる。だから最近は、並んで同じ場所にいることの方が多い。アリシアが感じたことを俺に話して、俺が自分の言葉で返す。それが一番、何かを共有している感じがした。
その日も、館の庭の石畳の端に土の精霊が出ていた。砂粒を寄せ集めたような丸い輪郭が、午後の光の中でわずかに揺れていた。
「また出てる」とアリシアが言った。
「今日は二体いる。左の方、少し奥にもいるから」
アリシアが目を細めて石畳の端を見た。しばらくして「……ああ。なんか違う」と言った。
「そう。輪郭の形が少し違う。同じ土の精霊でも、個体差がある」
「個体差って精霊にもあるんだ」
「あると思う。あの左のやつは初めて会ったのに、なんか懐かしい感じがする」
二年前は精霊の気配をざっくりとしか感じられなかった。今は複数いる時に、それぞれが別物だということがわかる。名前をつけているわけではないが、馴染みがあるかどうかくらいはわかるようになっていた。それが成長なのか、精霊の方が俺に慣れてきたのか、どちらかはわからない。
アリシアがそちらの方に向かって「こんにちは」と声に出して言った。
精霊は揺れた。
喜びの感触が、俺の頭の端に届いた。
「アリシアのこと、覚えてきてる」と俺は言った。
「ホント?」
「今の揺れ方が、知らない人を見た時と違う」
アリシアが少し嬉しそうな顔をした。それ以上何も言わなかったが、その顔のまましばらくそこにいた。精霊もそこにいた。三人で、特に何もしないまま、午後の光の中にいた。
これでいい、と俺は思った。互いの心の輪郭が静かに馴染んでいく気がした。
それがその日の午後の終わりまでの話だ。
――――――
空が変わったのは、アリシアが館へ戻った後だった。
晴れていた。確かに晴れていたのに、光が急に薄くなった。雲が来たわけではなかった。空全体の色が一段落ちた。影が濃くなって、木の葉の緑が沈んだ。
ゆっくりではなかった。気づいたら変わっていた。
風は来なかった。雨の匂いもしなかった。
足元の精霊が揺れた。いつもとは違う揺れ方だった。まず右端が揺れて、少し遅れて左端が揺れた。一体が揺れたのではなく、二体が同時に反応した。それが最初に気になった。
「どうした」と俺は声に出した。
《≡≡▼≡≡≡▼≡》
嫌だ、という感触が来た。正確には、嫌というより、何かがずれている、という感触だった。普段の精霊の「嫌い」と少し質感が違う。普段は何かに対する反応だが、今回はもっと方向性のない、根拠がはっきりしない不快感だった。
「何が嫌なんだ」と聞いた。
《≡≡……▼▼≡》
わからない。でも嫌。そういう感触だった。精霊が「わからない」と言う時の感触は知っている。答えを持っていないのではなく、問い自体に対して答えが出ない、という状態だ。今日のそれは、その種類だった。
「そうか。俺もそう思う」
夕方まで、空はその薄暗さを保ち続けた。雨も風も来なかった。日が落ちてようやく、普通の夜の色に変わった。
翌朝、俺はガレス様と父さんに話した。
「昨日の午後、空の色が急に落ちました。雨でも風でもありませんでした。精霊がざわついていました。理由はわかりません。精霊自身もわかっていないようでした。ただ、わからないということをわかっている状態でした」
最後の一言は余分だったかもしれない、と思ったが、それが正確だったから言った。
父さんが「そうか」と言った。ガレス様が庭の方を一度見てから「引き続き様子を見ろ」と言った。
それだけだった。ただ、ガレス様の目が、話を聞いた後でしばらく空の方を向いたまま戻らなかった。
――――――
その日の午後、使者が来た。
近隣のレンツ領からだった。顔色が悪かった。声に息が混じっていた。
迷い魔が現れた、という。
背筋が、一度だけ冷えた。
ガレス様と父さんが応接室で話を聞いた。俺は廊下の外に立って、扉越しに空気だけを感じていた。精霊がまたざわめいた。昨日と同じ質の揺れだった。何が嫌なのかはわからない。ただ、嫌だという確信だけがあった。
夕刻、ガレス様が館に主な者たちを集めた。エリオット様、兄さん、俺、領兵団の主な者。
「レンツ領に迷い魔が出た。規模はまだ確認中だが、ヴァルデンブルク辺境伯軍はすでに向かっていると考えられる。我々も援軍として出陣する」
エリオット様が「わかりました」と言った。兄さんが頷いた。俺はガレス様の顔を見ていた。普段の穏やかさではなかった。言葉が短かった。
出陣は翌朝と決まった。軍の構成はガレス様、父さん、俺と領兵団の半数。残り半数は村の防衛にあたる。
その夜、俺は土の精霊に話しかけた。
「明日、レンツ領へ行く。精霊はいるか」
《□□▼▼≡》
いる。でも遠い。嫌な感じがする。そういう感触が返ってきた。
「わかった」と俺は言って、目を閉じた。
――――――
翌朝は靄がかかっていた。秋の霞が低く漂い、木々の輪郭がぼんやりしていた。
出陣の前に、それぞれが言葉を交わした。マリナ様がガレス様に「気をつけて」と言った。母さんが父さんの手を一度だけ握って、離した。エリオット様が兄さんの肩を叩いて「頼んだぞ」と言った。スーリィが俺の裾を引っ張って「帰ってきてね」と言った。「帰ってくる」と俺は答えた。
アリシアは少し離れた場所に立っていた。腕を組んで、まっすぐ前を向いていた。悔しそうな顔だった。
「行ってきます」と俺は言った。
アリシアはしばらく黙っていた。それから「行ってらっしゃい」と言った。いつもより声が低かった。
俺は前を向いて歩き出した。靄の中で、足音が湿った土に吸い込まれていった。
足元の精霊がついてきた。嫌な感じは、まだそこにあった。
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