第10話 炎と名前
(ヴァルト視点)
役人の糾弾から数日が経った。
不正や悪意のある間違いは見受けられなくなっていた。たまに気になる数字があっても、確認すると単純なミスだった。
次は単純な間違いも無くなるよう方法を考えながら、ヴェルザリア姉上の執務室での作業を続けていた。
ただ、胸騒ぎが収まらなかった。
数字は正確だった。ヴェルザリア姉上の顔色は良かった。部屋の空気も澄んでいた。何も問題はなかった。
なのに、何かが落ち着かなかった。
ヴェルザリア姉上はそんな俺を、時折静かに見つめていた。何かを言いかけて、やめることが何度かあった。
作業を終えて自室に戻ってくると、扉の前に見たことのない従者が立っていた。
「エドはどうした」と俺は聞いた。
「侍従長に呼ばれているとのことで、席を外しております。エドに頼まれて、戻るまで代わりを務めます」
胸騒ぎが、少し大きくなった気がした。
侍従長のところに確認に行くか、少し考えてやめた。
「わかった。用があれば呼ぶ」とだけ言い、自室に入った。
――――――
次のヴェルザリア姉上のサポートをどうするか考えていると、扉がノックされた。
「エドです。ラグナス様からのお手紙を預かっています」
ラグナス兄上から。
なぜ。
今の関係性の中で、ラグナス兄上が俺に手紙を送る場面は思い当たらなかったが、ただの手紙だ、と思い直した。
「入れ」と言った。
エドが入ってきた。先に不在にしたことへの謝罪があった。「気にするな」と返した。エドが「ありがとうございます」と深く礼をした。
その深さが、いつもより少し深かった。
「ラグナス様からのお手紙です」
折りたたまれた紙を受け取った。
封蝋を見た。
止まった。
ラグナス兄上の封蝋ではなかった。精巧に偽造されているどころではない。誰が見ても気づくほどの差があった。エドなら見間違えるはずがなかった。
「どういうことだ?」
エドに問おうとした瞬間、エドの顔が目の前にあった。手には、ナイフがあった。
とっさに腕ごと払った。傷は負わなかった。
場所が入れ替わり、俺が扉を背にし、エドが部屋の奥にいた。
エドは何も喋らなかった。顔に、申し訳なさと焦りと緊張が滲んでいた。今にも泣き出しそうな顔だった。それでも、危害を加えようとしているのはわかった。
エドが再び動いた。身体を魔法で強化し、ナイフにも魔法をまとわせていた。
最初に魔法を使わなかったのは、魔力を察知されるのを避けるためか、と俺は分析した。
躱した。ナイフにまとった魔法が服の端をかすめ、布が裂けた。
「エド」
名前だけを言った。感情は入れなかった。
エドが一瞬止まった。
「話せ」
エドは一度だけ大きく息を吸った。
それから、話し始めた。
侍従長に呼ばれた場所に、黒いローブをまとった三人組がいた。目的は俺を殺害することだった。近くに仕える者なら警戒されずに近づけると考えたらしい。
最初は金だった。断ると、次は脅しだった。従わなければ殺すと言われた。それでも断った。
「……最後に、包みを渡してきました」
俺はエドの顔を見ていた。嘘の兆候を探した。なかった。声が震えていた。手も震えていた。ナイフを向けていた時と同じ震えだった。
「解いてみると、髪の毛の束が入っていました。私の妻と娘のものでした」
胸が、詰まった。
「段階的に欠損させていくと言われました。従わなければ」
俺は黙っていた。
「やつらはその手紙をラグナス様からだと渡し、その隙をついてナイフで——というのが指示でした。その後は気がついたらヴァルト様のお部屋の前でした」
エドは天井を見つめたまま言った。諦めたような、諦めていないような顔だった。
俺はじっとエドを見つめた。最後まで聞いた。黒幕は、わかった。
「お前の妻と娘は無事なのか」と俺は聞いた。
「……わかりません。殺害に成功したら返すと。逃げたり、ヴァルト様に伝えたら殺すと言われました」
俺は考えた。顔を歪ませてから、戻した。声に温度をなくして、順番に言った。
「今ならお前を見逃すことはできる。だがその時、ラグナスは口封じにお前と家族を処分する」
エドは黙っていた。
「ここで捕縛されれば、王族への暗殺未遂でお前と家族が処刑される。今ここで自害しても同じだ」
一つずつ、消えた。
「最後に……」
大きく息を吐いた。
「今、俺がお前を殺す。誰かもわからないように」
空気が止まった。
「お前が俺の殺害に失敗し、俺に殺されたことを知れば、ラグナスにとってお前の家族の利用価値がなくなり、解放される可能性がある。だが、暗殺者がお前だとわかれば家族は処刑される。だから、お前だとわかってはいけない。これが最もお前の家族の生存確率が高い」
エドはしばらく動かなかった。
それから、俺を見た。力強い目だった。涙ではなく、確認の目だった。
「……それが最善でしょうか?」
「そうだ」
「では、お願いします」
俺は目を閉じた。天を仰いだ。
どのくらいそうしていたか、わからなかった。時間の感覚が、その間だけ消えていた。
目を開けた。
「窓の前に立て」と言った。
エドは従った。窓の前に立ち、こちらを向いた。いつものエドの顔だった。笑っていた。
手のひらに炎を出した。深い緋色の球。完全な球体だった。
放った。
炎がエドの体を貫いた。窓が割れた。炎は中庭の木に当たり、散って消えた。
返り血が舞った。
部屋に、沈黙が落ちた。
割れた窓から夜風が入ってきた。ガラスの破片が床に散らばっていた。燭台の炎が揺れた。城の中のどこかで、何かが小さく軋む音がした。それだけが動いていた。
俺はエドを見た。まだ、エドだとわかってしまう。
もう一度、炎を出し、エドの体全体に放った。焼き尽くすまで、手を止めなかった。
煙が上がり、やがて静まった。
俺はただ立ったまま、そこにあるものを見ていた。
焦げた匂いが漂っていた。中庭の木から来ているのか、自分の部屋から来ているのか、判断しなかった。
息が苦しかった。
……これで、よかったはずだ。
そう思った。もう一度、思った。
変わらなかった。
――――――
扉が開いた。足音が速かった。ヴェルザリア姉上だった。
入った瞬間、ヴェルザリア姉上の足が止まった。俺を見て、部屋を見た。
それからすぐに、俺の方へ歩いてきた。
抱きしめられた。強く。何も言わずに。ヴェルザリア姉上の体が、かすかに震えていた。
「ごめんなさい」
ヴェルザリア姉上の声が耳の近くで聞こえた。「守れなかった。引きずり込んでしまった」
俺はヴェルザリア姉上の震えを感じていた。
体から、フッと力が抜けた。
一瞬だけ、何かが緩んだ。
ヴェルザリア姉上の腕が温かかった。
――ダメだ。
俺はヴェルザリア姉上の腕を、ゆっくりと引き離した。
「服が汚れてしまいますよ、姉上」
自分の声が、どこか遠く聞こえた。
「……これ以上、近づかないでください」
続けた。「姉上は、関わるべきではありません」
引き離した手を、下ろした。手のひらに、さっきまで感じていた温かさが残っていた。それが消えるまで、少しかかった。
消えた後、何かが終わった気がした。
ヴェルザリア姉上は何も言えなかった。言葉が出ない、という顔だった。ただその目だけが、俺の顔を見ていた。悲しみでも怒りでもなく、何かを残念がるような目だった。
俺は視線を外した。部屋を出た。
窓越しに見えた魔力観測塔の一つの灯りが妙に鮮やかだった。いつもと同じ紫だったはずなのに、今夜だけはどこか濃く見えた気がした。その意味はわからなかった。ただ、目に残ってしまった。それだけだった。
――――――
深夜の玉座の間に、照明はなかった。
高窓から月明かりだけが差し込んでいた。細く白い光が石の床に落ちていた。
ザハルが玉座に座っていた。
どこからか声が聞こえた。ヴァルト様の動向について、という言葉から始まった報告が、静かに続いた。
ザハルは玉座の上で動かなかった。報告の途中、一度だけ目を閉じた。
声が止まった。
長く、静かに息を吐いた。
「ふむ」と言った。
月明かりの中で、少し間があった。
「情を切った。が、迷いはあった、か……それでいい」
また間があった。
「どこまで削ぎ落とせるか、見ものだな。ようやく駒が動き始めたか」
口角が、わずかに上がった。
――――――
洗面室で、俺は手を洗っていた。
何度洗っても、汚れている感覚が消えなかった。
……だが、それでいい。
そう思った。
水を止めた。
滴る水音だけが、やけに大きく響いた。
――――――
執務室に戻った。
水音が、まだ耳に残っていた。
帳簿を開いた。ヴェルザリア姉上から引き継いで、正式に俺の仕事になった書類だった。数字は正確で、整理は完璧だった。
……これでいい。
指は止まらなかった。
手のひらに炎を出した。深い緋色の球。完全な球体。揺れなかった。
もうぶれることはない。
城の夜は静かだった。月の光が石畳に落ちていた。風は届かなかった。
寒さは、もう感じなくなっていた。
欠けているものは、もう何もない。ただ一つを除いて。
明日からは一日一話、20:00投稿予定です。




