第9話 動き出す者
(ヴァルト視点)
数日が経った。
作業の流れは初日に固まった。俺が伝票を突き合わせ、分類し、整理する。ヴェルザリア姉上が最終確認をする。誰かが来たら、俺は勉強をしているふりをする。
「できる限り、危険から遠ざけたい」とヴェルザリア姉上は最初の日に言った。
「……巻き込みたくないから」
今はヴェルザリア姉上がストレスなく作業できることが重要だった。だから反論はしなかった。ただ頷いて、作業を効率的に進めた。
勉強のふりをしながら、俺は別のことをしていた。
伝票に何度も出てくる規則性を、別の紙に書き写していた。出庫量と在庫量の不一致。改ざん箇所のパターン。虚偽記載の規則性。意図があった。三日目には確信した。
日を追うごとに、部屋が変わった。床の書類が片付き、鎧戸が開いて朝の光が入るようになった。ヴェルザリア姉上の顔色が戻り、食卓での言葉に張りが戻った。父上の目から冷えが消えた。
危機は脱した、と思った。
ただ、窓の外を眺めながら、腹の底に収まらないものがあった。
その夜のことだった。自室の窓から外を見ていると、魔法観測塔の灯りのうち、一つだけが、わずかに濃く滲んで見えた。夜間に観測をしているのか、別の何かか。調べようとして、やめた。根拠がなかった。ただの見間違いかもしれなかった。それでも視線は、しばらくその灯りから離れなかった。
――――――
廊下で母上とすれ違ったのは、その頃のことだった。
「ヴェルザリアの手伝いをしているの?」
「はい。勉強を教えてもらいながら、その実践として作業を手伝わせてもらっています」
「そう」
少し間があった。
「体調には気をつけながら、しっかりと教えてもらいなさい。あと……やりすぎないようにね」
そう言い置いて、母上は自室の方へ戻っていった。
その背中を見送りながら、俺は少し立ち止まった。
誰かがこの場面を見ていた、という感覚があった。廊下の向こう、あるいは角の陰から、誰かの気配がした。確証はなかった。ただ、背中の肌が少し冷えた。
足を動かした。執務室へ向かった。
――――――
作業が一段落したある午後のことだった。
ヴェルザリア姉上は読んでいた書類にサインを入れ終え、顔を上げた。
「今日の作業はもう終わりね」
「そうだね」と俺は言った。「書類がきれいに片付いている」
「魔法の訓練もあるでしょう?もう大丈夫よ。それともお茶でも飲んでいく?」ヴェルザリア姉上はいたずらっぽく言った。
いつものヴェルザリア姉上が、そこにいた。数日前の影が、今は見えなかった。それを確認して、俺は間を置いた。
「姉上、少しいいか?」
ヴェルザリア姉上は「いいわよ」と頷いた。
「これを」
別の紙を差し出した。几帳面に仕分けられた記録だった。
「……これは?」
「今日までの伝票や帳簿から、不正と悪意ある間違いをまとめた資料だ」
「……いつの間に」
「勉強のふりをしている時間に」
ヴェルザリア姉上が俺を見た。何かを言いかけて、止まった。
「明日、これを使って不正と改ざんをした役人を糾弾する」と俺は言った。
ヴェルザリア姉上の顔が変わった。
「ちょっと待ちなさい」資料を机に置いて、前のめりになった。
「そんなことをしたら、ヴァルト、あなた……」
「大丈夫。ただ間違いを正すだけ」
「大丈夫じゃないわ。相手には後ろ盾がある。あなたが動けば——」
「魔石については三年前もあった。同じ構造が続いている。問題に直面しても動けない集団になれば、いずれ崩れる。今できるから、今やる。それだけのことだ」
夕日が窓から差し込んで、部屋を赤く染めていた。ヴェルザリア姉上が何も言えない理由を、俺は知っていた。数日前まで、ヴェルザリア姉上自身がこの書類の問題に苦しんでいた。疲弊して、崩れる寸前にいた。そのことを、ヴェルザリア姉上は一番よくわかっているはずだった。
「魔法の訓練があるから行く」と俺は言い、扉に向かった。
扉を開けた。廊下に出た。後ろ手に閉めた。
木の戸板が、軋みながら収まった。
扉の向こうで、部屋が静かになった。
ヴェルザリア姉上は動けなかった。焦り、期待、不安、恐れが、全身を一度に駆け巡った。言葉が出なかった。体も動かなかった。
夕日で赤く染まった部屋に、一人で座っていた。
足音が廊下を遠ざかっていく。その音が完全に消えたとき、ヴェルザリア姉上は気づいたら口を動かしていた。声にならなかった。唇だけが、ほとんど自分でも気づかないほど小さく、一度だけ動いた。
――ありがとう。
誰にも届かない言葉が、赤い部屋の中に消えた。
――――――
翌朝、エドに正装へと着替えさせてもらった。
エドは俺の襟元を整えながら言った。「いよいよでございますか」
「そんな大したことじゃない」
「どうかヴァルト様が正しいと思うことをなさってください。私は、ヴァルト様の選ぶ道がいつも誰かのためであることを知っております」
「効率が悪いだけだ」
照れ隠しのように否定したが、こわばっていた肩が緩んだことに気づいた。
着替えが終わった。エドに見送られ、自室を出た。廊下を歩くと、足音が普段より少し響いた。
――――――
魔石を管理する役人の執務室に、宮廷警備隊を引き連れて入った。
集まった役人たちを見渡した。
「お前たちの中に、魔石の入庫数・使用数・在庫数を不正に操作し、横流しをしている疑いがある。その者たちにはこれから取り調べを受けてもらう。証拠は揃っている」
怒気は入れなかった。事実を告げるのに、感情は要らなかった。
「それ以外の者は、今後不正ができないよう、この書類に書いてある方法で管理してもらう」
室内が静まり返った。役人たちが俺を見ていた。連れてきた警備隊まで、わずかに固まっていた。まくし立てたつもりはなかった。ただ淡々と言った。それだけだった。
警備に連れられていく役人の中に、余裕の表情を崩さない者がいた。その顔を記憶した。
執務室を後にした廊下で、魔石の運搬をしている作業者の脇を通った。人を近づけないような張り詰めた空気をまとっていた。横目に確認して、通り過ぎた。
――――――
自室に戻ると、エドが扉の前で待っていた。
「おかえりなさいませ、ヴァルト様」
エドが扉を開けた。中に入った。
「いかがでしたでしょうか」とエドは言いながら、手早くお茶の用意をした。
「ああ、予定通りだ」
「……少々、お手が震えていらっしゃるようですが」
エドが茶を渡しながら、静かに言った。
俺は右手を見た。
確かに震えていた。
ただ事実を告げに行っただけのはずだった。緊張か、怒りか、安堵か、それ以外の何かか。自分でも、わからなかった。
茶を受け取って飲んだ。温かかった。
気がつくと、震えは収まっていた。
――――――
(魔王城)
その日の夜。光の届かない部屋があった。
深夜のことだった。魔王城の石の壁の中に、燭台の炎が一つだけ揺れていた。床には緻密な魔法陣が刻まれていて、紫がかった石の光を受けて鈍く照らされていた。その模様が二人の男の足元に奇妙な影を落とし、壁に伸び、また縮んでいた。
一人は魔界での標準的な体型をした男だった。炎の方を向いたまま、低く静かな声で言った。
「ヴァルト……あいつは俺の庭を荒らすのが好きらしい」
もう一人は背の高い、少し痩せた男だった。「兄さん……落ち着いて」声に怯えが滲んでいた。
「落ち着いている。証拠も消している」炎を向いたままだった。
沈黙があった。燭台の炎だけが揺れていた。床の魔法陣の影が二人の顔を照らしたり、遠ざけたりした。
「ただ……いい加減、分からせてやらなければいけないな。兄に楯突くという意味を」
背の高い男が前に出た。声がさらに小さくなった。
二人の間で何かが決まった。炎の揺れを除けば、部屋には音がなかった。何の言葉も外には漏れなかった。ただ、背の高い男の肩が一度だけ固まり、それからゆっくりと緩んだのが、陰の動きで見えた。
「いいだろう、そうするとしよう」
標準的な体型の男が立ち上がった。その口の端が、炎の光の中でわずかに上がった。
「行くぞ」
足音が遠ざかり、二人が消えた。
残された部屋の床で、刻まれた模様がしずかに照り続けていた。
夜が明けても、部屋の空気は触れられた形跡すら残さず、その紫の光だけが、何も知らない顔をしていた。
次話は20:00投稿予定です。




