第8話 静かに崩れるもの
(ヴェルザリア視点)
数字が、滑る。
それに気づいた瞬間、黒い羽ペンを止めた。ついさっきまで追えていたはずの列が、ただの線にしか見えなくなっていた。焦点が合わない。指先が微かに震えていた。
いけない。……これ以上は、数字が滑る。でも、終わらせないと。この綻びを放置してはいけない。
あの子なら、すぐに気づく。
その思考が浮かんだ瞬間、唇を引き結んだ。
巻き込めない。……まだ今は、私が耐えていれば。
薄暗い執務室の中で、再び数字を追い始めた。
部屋の中は燭台の炎だけが揺れ、窓の外に見える塔の紫の灯りの一つが滲んで見えた。
――――――
(ヴァルト視点)
朝食の場で、俺はヴェルザリア姉上を観察していた。
いつも通りに見せながら。父上からの問いに淀みなく応えながら。意識の半分は、長卓の向こうにあった。
三年が経っていた。俺の報告の中身は変わっていた。松明の配置から始まり、扱う規模が少しずつ大きくなっていた。父上が俺を見る時間も、わずかに変わっていた。以前は一瞬だった。今は、少し長くなった。それ以外は、変わっていなかった。
この食卓が観測の場であることは、三年前のままだった。
父上が「調子はどうだ」と問った。これが観測であることを、俺はずっと前から理解していた。答えの中身から、誰が何を持っていて、何を隠していて、今日の盤面がどうなっているかを読んでいた。だから兄上たちはそれぞれの立場に見合った言葉を選んだ。レグナ兄上は昨日の訓練成果を堂々と。ラグナス兄上は最近研究した戦術の要点を、笑いながら。ヴェルザリア姉上は——。
「お父様が懸念されている点があれば、後ほど個別に伺います」
それがヴェルザリア姉上の定型だった。情報を与えず、相手が出したいものを出させる。父上の懸念の所在を引き出しながら、自分の手の内を晒さない。あの答え方には毎回、複数の意図が畳み込まれていた。
だが、今日は違った。
「……昨晩までに、第四地区の輸送伝票三百枚の精査を完了させました」
声に張りがなかった。内容は成果の報告で、政治的な手ではなかった。ヴェルザリア姉上らしくなかった。
父上が一瞬だけ眉を顰めた。「……そうか」と呟き、すぐに表情を戻した。だがその目の力強さが、ほんの少しだけ落ちた気がした。
俺の番が来た。
「各部署の訓練成果報告について確認しました。現行では、実務担当と直属長がそれぞれ独立して要約を作成し、上位への報告時に再度統合する構造になっています。この二重の要約工程を統合書式に一本化する提案を、関係担当者と調整中です。移行は問題なく進んでいます」
言い終えて、内容が正確であることを確認した。問題がある、ではない。改善している、でもない。構造を見て、動かした。それだけだった。
父上は一度だけ俺を見た。それから料理に目を落とした。
俺は残りの時間、ヴェルザリア姉上を観察し続けた。
化粧で隠しているが、隠しきれていないものがあった。目の下の隈。虚ろな目の焦点のなさ。テーブルの端を掴む指の微かな震え。三日前から気になっていた何かが、朝の光の中でその輪郭を持ち始めていた。
食卓の時間が終わるまでに、俺は答えを出していた。
――――――
自室に戻り、先ほどの光景をもう一度なぞった。
ヴェルザリア姉上は食卓の時間が終わると、逃げるように席を立った。廊下を早く歩く後ろ姿を、俺は角から目で追った。あの背中に、いつものヴェルザリア姉上はいなかった。
父上がヴェルザリア姉上を見る目に、昨日と今日で違いがあった。今日の目には、何かを見損なったときの冷えがあった。それがヴェルザリア姉上に向いていた。
このままでは危険だ、と判断した。
組織として機能していないなら修正が必要で、修正できる立場にある者がいるなら動くべきで、俺はその立場にあった。それだけのことだった。
廊下に出ようと扉まで歩いたとき、従者のエドが声をかけた。
「ヴァルト様、本日は少々お顔が険しいご様子ですが、いかがなさいましたか」
エドは二十九歳の男だった。魔界では珍しく、人となりを重んじる。この半年、俺の言葉を軽んじることがなかった。
「……少し、笑顔を取り戻してくる」
自分の顔がどんな表情をしていたのか、少し気になった。
「左様でございますか。では、お帰りの際においしいお茶の用意をしておきます」エドはわずかに笑った。
エドが扉を開けた。俺はヴェルザリア姉上の執務室へ向かった。
――――――
ノックをして、返事がなかった。もう一度ノックをして、また返事がなかった。
しばらく待ってから、扉を開けた。
部屋は薄暗かった。窓の鎧戸が半分閉じられていて、朝の光がほとんど入っていなかった。空気が重かった。石の冷えと、燃え切った蝋燭の残り香が混ざっていた。
ヴェルザリア姉上は机の前にいた。書類の山に半ば埋もれるようにして、うつむいて何かを書いていた。俺が入ってきても顔を上げなかった。
美しかった。相変わらず。ただその美しさが、今日は薄い殻の上にあるだけだった。
「ヴァルト、どうしたの」
だいぶ経ってから、ヴェルザリア姉上が言った。こちらを向いていなかった。
「最近の朝食の様子が気になって……見に来た」
「何も心配することはないわ」
書類から目を上げなかった。
普段なら、こちらに顔を向けて話す。それがなかった。何かを見られたくないか、顔を向けたら崩れるか、そのどちらかだと思った。
「三年前の帳簿の件を覚えている?あのとき役人の横領を見抜いた。同じことができる。だから、手伝える」
間があった。
「……大丈夫よ」とヴェルザリア姉上は言った。まだ、こちらを見なかった。
俺は部屋の中を見渡した。床に落ちた書類が数枚あった。積み上げられた帳簿。整理されていない伝票の束。
手伝いを申し出ることは、もう終わりにした。
床の書類を一枚拾い上げて、読み始めた。
「……やめなさい」と姉上が言った。声は小さく、力がこもっていなかった。むしろその声には、安堵の色があった。
俺は読み続けた。
伝票だった。単純な突き合わせの書類だった。なぜヴェルザリア姉上がこれをやっているのかが、読み進めるうちにわかってきた。数字に間違いがあった。一枚だけではなかった。規則性があった。誰かが意図的にやっていた。
「……こんなに間違いがあるのか」
声に出すつもりはなかった。
ヴェルザリア姉上がようやく顔を上げた。その顔に、俺には名前のつけられない何かが浮かんでいた。怒りでも拒絶でもなかった。もっと複雑で、もっと痛そうだった。
「……わかったわ」と姉上は言った。
俺は椅子を引いて座り、伝票の束を手前に引き寄せた。
部屋の空気が、わずかに動いた気がした。
次話は18:00投稿予定です。




