第142話 一区切り
(リュート視点)
兄さんが森国を出発して、二か月が経った。木々の緑は夏の盛りのまま濃さを増し、朝の空気にはまだ湿った土の匂いが残っていて、鍛錬を始める頃には額に汗がにじんだ。
俺たち四人は変わらずコランタンさんに扱かれていた。進展がないわけではない。フェルウィン先生に教えてもらったイメージの作り方を、それぞれが自分なりに噛み砕いて、試行錯誤を繰り返していた。
エノラはよく修練場に顔を出すようになった。屋根の下から少し外れた石段に腰を下ろし、頬杖をついてこちらを眺めていた。一緒に修行をするわけではなかった。フェルウィン先生も頻度はエノラより落ちるが、来た時は少し離れた位置から、時折何かを紙に書き付けている様子は、見学というより観察に近かった。
その日、コランタンさんはスーリィにつきっきりだった。そのせいなのか、フェルウィン先生とエノラも自然とスーリィの側に集まっていた。周りばかり見ていても仕方がない。自分の修行に集中しようとした時、コランタンさんの声が飛んできた。
「そうじゃ。それじゃ。それが我らと同じ純度の精霊術じゃ。よし、嬢ちゃん、もう一度やってみるのじゃ」
声のした方を見ると、スーリィが目を閉じ、微動だにせず集中していた。次の瞬間、目の前の空間が小さく揺らぎ、水球が発現した。
「ふむ。偶然ではないようじゃな」
「うん」
俺とアリシア、ユリウスも近づいた。
「スーリィ、できたのか?」
「うん、できたみたい」
「すごいじゃない。どうやったの?」
アリシアが聞くと、スーリィは少しだけ得意そうな顔をした。
「精霊にいっぱいお願いしたらできたの」
「参ったな……それじゃ参考にならない」
ユリウスが眉間に皺を寄せ、少し間を置いてから言った。冗談めかした口調だったが、視線はしばらくスーリィの手元から動かなかった。年下のスーリィに先を越されたことが堪えているようだった。
「そうでもないわよ。以前言ったでしょ、詳細なイメージだって。情報量が多いということは同じよ。ただ、その人に合ったやり方があるだけよ」
フェルウィン先生が紙から顔を上げずに言うと、スーリィが首を傾げた。
「この子は最初から精霊との関わり方がエルフに近かったもの。それでなんとなく感覚でいけたんでしょうね」
「そんなことは良いのじゃ。ようやったぞ、スーリィや。次は自由に純度を変えるんじゃ」
「え、まだやるの?」
「当然じゃ。儂が立派な精霊術師にしてやるぞ」
スーリィが少しだけ嫌そうな顔をした。それを見たエノラが、待っていたとばかりに口を挟んだ。
「できたご褒美で今日くらいは終わりにしても良いじゃない。そんなことだから、狂導師なんて呼ばれたりするのよ。さぁスーリィ、街にでも遊びに行きましょ」
スーリィの返事も聞かず、エノラはスーリィを連れて修練場を出て行ってしまった。柱の外へ二人の背中が消えると、コランタンさんの機嫌が目に見えて悪くなった。
「スーリィに抜かされたお前たちは何をしとるんじゃ?さっさと続けんか」
エノラの余計な一言のせいなのか、単にスーリィがいなくなったせいなのか。どちらにしても、原因はエノラだということだけは確かだった。
「あ、フェルウィン先生、情報量を多くすればいいんですか?」
俺が聞くと、先生はしばらく間を置いてから答えた。
「簡単に言えばそのはずよ。ただ、それだけじゃ足りないでしょうね。師匠の知り合いが解明したという霊核と属性核も意識してみなさい」
「と言いますと?」
ユリウスが先を促す。
「精霊が属性核を使うような情報を増やすの。いい、直接的に属性核を使うように言うのではないわ。あくまでも精霊が自然に属性核を使ってしまうようにするのよ。命令じゃなくて、誘導。分かりやすく言えばそういうことね」
「それが難しいんですが……」
アリシアがため息交じりに呟いた。
「あの子はそれを感覚でやったのよ。精霊術学院にも通っていない年下に遅れを取るなんて、困った卒業生だわ」
「そうじゃ。いつまで休んどるつもりじゃ。四の五の言っとらんで、手を動かせ」
コランタンさんの声に、俺たちは「はい」とだけ返してその場を離れた。離れる間、ユリウスが小声で話しかけてきた。
「あれのどこが導師なんだ?やれとしか言ってないぞ」
「違うぞ、狂導師だ。狂ってるんだから、あれでいいんだよ」
「失礼だよ。昔はきっと凄かったんだよ」
アリシアがたしなめた。
「アリシアもなかなかひどいこと言ってるぞ」
後ろから大声が飛んできた。
「何か言ったか?」
誰も答えず、足早にバラけて、それぞれの修行を再開した。逆らわないのが一番だ。経験だけはあるからな、と自分に言い聞かせた。
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結局その日、三人とも純度は変わらなかった。
三日後、修練場の空気がわずかに揺れた。顔を上げると、アリシアの手のひらの上で、光の粒が澄んだ輝きを放っていた。コランタンさんが目を細めた。
「うむ、ようやったな、アリシア」
アリシアは小さく頭を下げただけで、それ以上は何も言わなかった。
その一週間後、ユリウスも同じ壁を越えた。何度目かの挑戦で、拍子抜けするほど静かに青白い火球が発現した。コランタンさんが「うむ」とだけ言った。それだけで満足そうな顔をしているのが、なんだかユリウスらしかった。
俺はその後もしばらく足踏みが続いた。何度試しても純度が思うように上がりきらず、ようやく狙い通りの土球が出た時には、コランタンさんの「遅い」の一言だけだった。
高純度が使えるようになった次の日から、修行の中身が変わった。それまでが嘘のように、コランタンさんが一つ一つ細かく指導するようになった。まるで、高純度が出せなければ教える必要はないと言うかのようだった。その指導は的確で、ユリウスは「やっぱり導師だったんだな」と認識を改めていた。
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一か月が経つ頃には、四人とも純度をある程度自由に変えられるようになっていた。修練場を吹き抜ける風が、いつの間にか秋の匂いを帯び始めていた。
いつものように修練場で純度を変える修行をしていると、コランタンさんが皆を集めた。
「皆、純度の制御はできるようになってきておる。一旦この辺りで区切りでよかろう」
「あの、俺が目標は霊素の直接制御なんですが……」
「わかっておる。じゃが、霊素の直接制御は儂もできんと言うたじゃろ。それにお前たちは修行のしすぎじゃ。他のことも見聞きし、体験したことが精霊術に活きることもある。しばらくは別のことをするのじゃ」
「はぁ。でも、時間がありません」
言いながら、胸の内で苦いものが広がるのを感じた。兄さんが帰ってくるまでは動けない。頭ではわかっていても、待つことに慣れない自分がいた。
「何を言うとる。どうせお前の兄が帰ってこんことには両親は助けに行かんのじゃろ?後九ヶ月程度はあろう。人間は生き急ぎすぎていていかんのう」
その一言に、言い返す言葉が見つからなかった。握った拳に、知らず力がこもっていた。それでも食い下がろうとする俺を遮るように、コランタンさんは続けた。
「とにかく、今後、儂の修行は週に一度、自主的な練習も週に二度までじゃ。後、リュートは剣の練習も週に三度までにしておくのじゃ」
そう言い残し、コランタンさんは足早に修練場を去っていった。足音が遠ざかり、聞こえなくなるまで、誰も口を開かなかった。
残された四人で、これからのことを話した。スーリィは修行が減って嬉しそうだったが、アリシアとユリウスは真剣に何かを考えている様子だった。
「とりあえずエノラに話してみない?何かするにしても許可は必要だろう、何かいい経験になることがあるかもしれないし」
「悪くないな。遊ぼうって話が最初に出るだろうけど、他に当てもないしな」
「僕は遠慮する。少し考えたいことがある」
ユリウスが少し目を伏せて言った。
「そうか。まぁやることがあるならそれをするに越したことはないな」
「スーリィはどうする?」
「私もエノラのところに行く」
「じゃあ行こうか。ユリウスもまたな」
「ああ」
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エノラの部屋を訪ねると、甘い香草の匂いがふわりと鼻先をかすめた。分厚い絨毯、丸い小卓と揃いの椅子が周囲に置かれていた。俺とアリシア、スーリィの三人は勧められるまま椅子に腰を下ろし、事情を説明した。
「というわけで、自由な時間が増えてしまったんだ。何かないかな?」
「のんびりしていればいいと思うけど?」
「いえ、そういうわけにはいかないわ。ただでさえ、お世話になっているのに、のんびりしていることなんてできないわ」
アリシアが言うと、エノラは椅子の背にもたれ、少しだけ肩をすくめた。
「真面目ねー。ただ、私じゃ思いつかないわね。こういうことはパパに聞くのが一番よ」
「ロナン様ならそうだろうけど、簡単に会える人じゃないだろ?」
「それもそうね。聞いてみるから、何日か時間をちょうだい」
「わかった。よろしく頼む」
その日はそのまま部屋に戻り、静かに過ごした。窓の外から森国の夜が静かに更けていくのを眺めながら、ふと、兄さんは今頃どうしているだろう、と思った。考えたところで、答えが返ってくるわけではない。それでも、頭の隅からその存在が消えることはなかった。




