第130話 目通りの日
(リュート視点)
「じゃあ、行きましょうか」
フェルウィン先生の声で、移動を始めた。控えの間を出ると、廊下の空気がわずかに緩んだ気がした。誰も何も言わなかった。ただ足音だけが石の床に響いていた。
案内されたのは、王宮の一角にある客室が並ぶ区画だった。廊下の突き当たりを曲がると扉が並んでいて、その手前で一人の女性が立っていた。
年齢は先生と同じくらいだろうか。エルフらしい細い体つきで、髪をきっちりと結い上げていた。俺たちの姿を見ると、静かに礼をした。
「本日より、皆さまのお世話をさせていただく、カテリ・ケルレックと申します」
声には抑揚がなく、表情も動かなかった。事務的、という言葉がそのまま当てはまるような挨拶だった。
「久しぶりね、カテリ。皆のことよろしくね」
フェルウィン先生が気軽に声をかけた。知り合いのようだった。
「感情をあまり表に出さないけど、仕事はしっかりするわ。それにエルフも人間も気にしない子よ。カテリって呼んであげて」
その言葉に、隣にいたスーリィが少しだけ肩の力を抜いたのが分かった。兄さんも、アリシアも、微かに息を吐いていた。誰も口には出さなかったが、安堵していたのは俺だけではないようだった。
「よろしくお願いします、カテリさん」
アリシアが丁寧に頭を下げた。
「お世話してくれる人がいるの?」
スーリィが不思議そうに聞いた。
「俺たち庶民では考えられないけど、王宮に住まわせてもらうんだ。色々と作法や注意しないといけないこともあるからな」
兄さんが答えた。
「それに、ユリウスは貴族だから、世話してくれる人がいないといけないだろ?」
「バカにするな」
「冗談だよ。怒るなって」
ユリウスが眉を寄せたが、本気で怒っているわけではないのは声の調子で分かった。カテリさんを見ると、こんなやりとりの間も眉一つ動かさず、視線の位置は俺たちの真ん中から動かなかった。
「とにかく、これからよろしくお願いします、カテリさん」
「よろしくお願いいたします」
それだけ返ってきた。一礼の角度も、間合いも、寸分違わず同じだった。感情の色はやはり見えなかったが、拒絶の色もなかった。それだけで十分だった。
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王宮での暮らしが始まって、数日が経った。
ロアリックは定期的に姿を現していた。何を話すでもなく、廊下の向こうから様子を確認して去っていった。最初のうちはその視線に落ち着かないものを感じていたが、次第に、それも日課の一つとして受け止められるようになっていた。何かを確かめられている。そんな感覚だけが、日を追うごとに薄く積もっていった。
カテリさんの態度も、少しずつ変わっていった。
「お食事、お口に合いましたか?」
最初の事務的な口調に、わずかに気遣いが混じるようになっていた。アリシアが「ありがとうございます」と伝えると、カテリさんは一瞬だけ驚いた顔をした。
「……いえ、当然のことです」
そう答える声は変わらず淡々としていたが、その一瞬の間に、仕事だからやっている、というだけではないものが確かにあった。
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滞在中に特にすることもなかったこともあり、精霊術や剣の稽古は欠かさなかった。庭の一角を借りて、アリシア、ユリウス、スーリィも一緒に練習に加わった。
手のひらに光の粒が触れた瞬間、いつもと違う手応えがあった。軽い。それでいて、指の間からこぼれ落ちる寸前で、すっと吸い付くように寄ってきた。
「なんか、精霊がいつもと違わないか?」
「リュートもそう思う?いつもより、反応が速いというか、軽いというか、そんな気がする」
「ああ、なんかいつもより近くに感じる」
森国の精霊は、王国の精霊と少し違った。言葉にするのは難しいが、纏う空気そのものが柔らかかった。
「お前たちも感じたということは、俺の気のせいではないな」
いつの間にかユリウスも近づいてきていた。腕を組み、値踏みするような目で庭の空気を確かめていた。
「詠唱の精霊術を軽く試してみたが、全く反応しなかった。完全に拒否か無視された感じだった」
「学外実習で行った丘陵地の精霊をもっと純粋にした感じみたいだね」
「おそらく精霊王の影響を受けて、王国の精霊とは何かが違うんだろうな。ユリウス、たぶん詠唱の精霊術はもう試さないほうがいいと思うぞ」
「わかってる。もう使う気はない。発動しない以上、使う意味はないし、不要な問題が起きるかもしれないからな」
そう言うと、ユリウスは視線の向きを変えた。つられてそちらを見ると、少し離れた場所からロアリックがこちらを見ていた。何も言わず、ただ見ていた。何かを探っているのか、その表情からは読み取れなかった。
「集まって何してるの?」
スーリィが庭を横切って走ってきた。
「精霊の感じが違うねって話をしてたのよ」
「うん、仲良くなったよ。見て見て」
特に何か構えるということもなく、スーリィの周りに影が広がった。光の点が、次々と浮かび上がった。目で追おうとした端から新しい光が灯り、数える前に視界の端で滲んで消えていった。前は一つの光が灯るだけだったが、今はもう、どこに目をやればいいのかさえわからなかった。
それを見て、ユリウスが驚きの表情を見せた。少し離れた場所にいるロアリックも、目を見開いてスーリィの精霊術を見ていた。
「九ヶ月くらいでそこまで成長していたか」
「ううん、ここに来るまではこんなにはできなかったよ。仲良くなったらできた」
スーリィは笑顔で答えた。
「相性がいいのかもね」
アリシアも少し驚いた顔をしていた。
「はぁ……お前の家族はどうなっているんだ」
ユリウスが頭を押さえながら言ってきた。
「ん?普通だろ?」
そう答えると、ユリウスは長いため息を吐き、首を横に何度か振ってから、どこかへ歩いていってしまった。
「どうしたんだ?」
アリシアの方を見ると、アリシアも呆れたような顔をしていた。
「区切りもいいし、今日はこのくらいにしておきましょう」
そう言って、アリシアも部屋の方へ戻っていった。残されたスーリィを見ると、不思議そうに首を傾げるだけだった。
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その夜、部屋の窓から庭を見下ろした。昼間感じた精霊の気配は、夜になっても消えていなかった。むしろ、静かになった分だけ、より近くにいるように感じた。
森国という土地そのものが、精霊にとって特別な場所なのだろう。王国の精霊とは違う、もっと純粋な何か。それが何を意味するのか、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは、この森のどこかに、精霊王がいるということだった。会えるかどうかは、精霊王次第。その一言が、ここ数日ずっと頭の隅に居座っていた。
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さらに三週間ほどが過ぎた、ある日の夕方だった。フェルウィン先生が皆を談話室に集めた。
「精霊王様が、会うと仰ったそうよ」
その一言で、部屋の空気が変わった。誰も何も言わない。ただ、その場が静まり返った。
「いつですか?」
やっと声を出せたのは俺だった。
「これからよ。私が連れて行くけど、精霊王様が会うのはアーデン君、あなた一人だけだそうよ」
「会えないの?」
スーリィが残念そうな顔をした。
「ごめんなさいね。でも、いずれ会えるかもしれないからその時を楽しみに待っててね」
フェルウィン先生の言葉に、スーリィは小さく頷いた。それ以上は何も言わなかったが、目には落胆の色が滲んでいた。
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フェルウィン先生に連れられて王宮を出た。向かった先は、街の北側だった。
石畳の道が途切れ、森がさらに深くなっていく。木々の合間から差し込む光が少しずつ弱くなり、やがて視界の先に湖が見えてきた。その湖に囲まれるようにして、一本の巨大な木が立っていた。王宮の裏手にある木と比べるまでもないほど、遥かに大きかった。
その木に近づくにつれ、腕の産毛がざわりと立つのが分かった。耳の奥に、微かな圧を感じた。手のひらに、じんわりと汗が滲んでいた。
木の手前で、フェルウィン先生が足を止めた。
「ここから先は、私も入れないわ。一人で行きなさい。精霊王様はあの神木の根元にいらっしゃるはずよ」
頷き、神木の方へ進んだ。振り返ると、フェルウィン先生は動かずにこちらを見ていた。
神木に近づいた瞬間、周囲が白く染まった。




