第122話 役に立てなかった
(アリシア視点)
フェルウィン先生の問いかけに、ユリウスが手を挙げた。リュートは相変わらず視線を落としたままだったが、指先がテーブルの縁に触れ、そのまま止まった。木の縁のざらつきを確かめるような、意味のない動きだった。何かを聞き逃すまいとしているようにも見えたし、ただの癖のようにも見えた。
「フェルウィン先生はどうしてあの時、あの場所にいたんですか?」
「助けに来たのよ。……でも、聞きたいのはそういうことではないわよね?」
ユリウスがこくりと頷いた。
「助けに来たというのは本当だけど、正直、あの場に落ち合えたのは偶然というしかないわね」
フェルウィン先生は淡々と続けた。
「ブランデル領に向かっている途中に、ハルデンシュタットに寄ったの。そこで明らかに異質な教会関係者の一団を見つけて、すぐに異端審問の関係者だとピンときたわ。それで、彼らが移動を始めたから追ってきたのよ。ただ、彼らの移動が速くて引き離されてしまったのだけれどね。方角から森国の国境の方だと当たりをつけて移動したら、ちょうどあの場面だった、というわけよ」
「そうなんですね。でも、どうしてブランデル領に行こうとしてたんですか?」
私は尋ねた。答えを知るのが少し怖かったが、聞かずにはいられなかった。
「数ヶ月前に、ヘルミーネから、アーデン君の異端審問については聞いていたの。協力してほしい、とも言われたわ。……でも、今の私では無理ねと答えたわ」
「どうしてですか?」
「あの時の私にできることは、研究を完成させることだけだったから」
「研究を優先したということですか?」
ランベルトさんの声には、少しだけ棘があった。だがすぐに、自分でもそれに気づいたのか、口を閉じ、一拍おいてから言葉を継いだ。
「いえ、すみません」
その一拍の間、誰も口を開かなかった。テーブルの木の感触だけが、指先にやけにはっきりと残っていた。
「そう思われても仕方ないわ。ただ、研究が完成しないと、私は役に立たなかったのよ」
全員の表情に、疑問の色が浮かんだ。ランベルトさんが眉根を寄せ、あれほどの精霊術を使えたのにと言いかけて、途中で言葉を止めた。答えを急かすつもりはないというように、それ以上は追わなかった。
「そういえば、学院でも精霊術を使ったところ、見たことがないな」
ユリウスが、思い出すように呟いた。
「それは、私たちエルフのことを話さないといけないわね」
フェルウィン先生は少しだけ考えるようなそぶりを見せてから、続けた。
「エルフは森国の外では精霊術を使えないのよ」
「でも、あの時の霧は精霊術ですよね?フェルウィン先生が使った……」
「そう、私が使った精霊術よ。森国の外でも精霊術を使えるようにすること、これが私の研究。そのために学院に入ったの」
フェルウィン先生はそう言うと、首元の首飾りに手をかけた。全員の目が、自然とそこに集まった。ランベルトさんが覗き込むように首を伸ばし、スーリィも同じように顔を近づけた。地味な作りの、小さな石がついただけの飾りだった。リュートだけが、その石に一瞬だけ目を向け、またすぐに視線を落とした。それが研究の成果なのだと、言われなければ誰も気づかなかっただろう。
「まだ条件はあるのだけれど、研究が完成したから、助けるためにブランデル領へ向かっていたのよ」
「そうだったんですね。弟のためにありがとうございます」
ランベルトさんが頭を下げると、その横でスーリィも小さく頭を下げた。
「いいのよ。アーデン君のおかげで、研究がかなり進んだのだから。その借りを返しただけよ」
「あの、リュートとフェルウィン先生ってそんなに接点なかったと思いますが?リュートは剣術と精霊術の練習ばかりしてましたし」
私は思っていたことを口にした。
「私が一方的に、アーデン君と精霊の関係を観察させてもらっていたのよ。それがなければ、行き詰まっていた研究が進展することはなかったわね」
「アーデンと精霊の関係、ですか?」
「ええ、どういうことかは、きっとすぐにわかると思うわ」
フェルウィン先生の口角が少しだけ上がり、視線がリュートの指先に一瞬だけ向いた気がした。ユリウスは首をひねっていたが、またはぐらかされると思ったのか、それ以上追及することはなかった。
窓の外から届いていた物売りの声が、少しずつ数を減らしていた。昼の喧騒が、夕方の静けさに変わりつつあるのが、声の量だけで分かった。




