第120話 エルネシア森国、イェルナ
(アリシア視点)
数日間、森の中を歩き続けた。
追手は来なかった。魔物も現れなかった。それだけのことが、これほど心を軽くするとは思わなかった。とはいえ、油断ができるような空気ではなかった。誰もが口数少なく、足を止める時も周囲を確かめる癖が抜けなかった。
その日の昼過ぎだった。歩いていた足の裏に、ふっと違う感触が走った。虫の声も風の音も、その一瞬だけ、ふっと遠のいた気がした。
何かを踏み越えた、というよりは、薄い膜を一枚くぐり抜けたような感覚だった。あの霧の中で感じたものと似ていた。ただし、あの時は肌にまとわりつくような重さがあったのに対して、今のそれは一瞬で消えた。まるで、通り抜けたことにすら気づかせないほど淡かった。遅れて、虫の声がまた戻ってくる。
「今の、何か……」
思わず口にすると、前を歩いていたフェルウィン先生が振り返らずに答えた。
「結界よ」
それだけだった。詳しい説明はなく、フェルウィン先生はまた前を向いて歩き出した。聞き返そうとしたが、それ以上踏み込むことを許さない空気があって、私は黙って後をついていった。
しばらく歩いたところで、フェルウィン先生の足が止まった。
「ここよ」
周りを見回しても、何の変哲もない森があるだけだった。木々が並び、下草が茂り、他の場所と何一つ変わらなかった。ランベルトさんが剣の柄に軽く手を添えたまま、辺りを警戒するように視線を巡らせた。
フェルウィン先生は一瞬、周囲に目を走らせた。誰もいないことを確かめるような、わずかな間だった。それから小さく呟いた。何かの言葉だったが、耳に届いた瞬間には、もう意味を結ばなかった。歌のようでも祈りのようでもある、短い響きだった。こんな言葉、これまで一度も聞いたことがなかった。呟き終えたフェルウィン先生は、小さく息を一つついた。何か重いものを下ろしたような、そんな仕草だった。
次の瞬間、目の前の森が姿を変えた。
鬱蒼と茂っていたはずの木々の間に、いつの間にか一本の道が延びていた。さっきまで確かに枝葉で塞がれていた場所に、迷いようのない道が続いていた。誰も声を出さなかった。出せなかった、というほうが近かった。
「ここから森国に入れるわ。行きましょう」
フェルウィン先生はそう言って、また歩き出した。私たちは驚きのあまり声も出せず、ただ黙ってついていくしかなかった。
それから数時間、道なりに歩いた。日が傾き、木々の隙間から差す光が赤みを帯び始めた頃、前方に小さな街の輪郭が見えてきた。木造と石造りの家々が、思いのほか整然と並んでいた。煮炊きの煙のにおいが、風に乗ってかすかに届いた。
「イェルナよ。まずはあそこで入国手続きをして、それから休みましょう」
先生の言葉に、皆の顔にわずかな安堵が浮かんだ。長い逃亡の果てに、久しぶりに屋根のある場所で休めるかもしれない。そう思うと、強張っていた肩が少しだけ緩んだ。
ただ、リュートの表情だけは変わらなかった。沈んだまま、うつむいた顔がわずかに上がることもなかった。それでも、街のにおいを吸い込んだ瞬間、鼻先がほんのわずかに動いた気がした。気のせいかもしれない。それくらい、小さな動きだった。
街の入口には、木造の簡素な詰所と小さな門があった。詰所から一人のエルフが出て来た。表情はほとんど動かず、値踏みするような間を置いて私たちを見た。それだけで、只者ではないという気配が伝わってきた。威圧しているわけではないのに、こちらの内側まで見透かされているような視線だった。
「リセル様」
男が言った。
「お久しぶりです」
「オルフィン。久しぶりね」
フェルウィン先生が応じた。オルフィンと呼ばれた男の視線が、フェルウィン先生から私たちへ移った。
「五人の人間を入国させるおつもりですか?」
「事情があるの。いつも通りに手続きをしてちょうだい」
「……承知しました」
短いやり取りだった。オルフィンは一人ずつ、順に視線を向けていった。何かを問うわけでもなく、ただ見ている時間が続いた。
まずリュートに視線が留まった。ただ、こちらを見ているというより、少し外れた位置——肩の輪郭の際のあたりを、何かを探るように見ているようだった。リュートは何も感じていないように、ただ地面を見ていた。
次に私の番だった。値踏みされるような視線に、思わず息を止めてしまった。オルフィンの目が、私自身ではなく、私を通り越したどこかに焦点を合わせているような、奇妙な間があった。スーリィのところでは、視線がわずかに柔らかくなった気がしたが、それでも同じだけ長く留まった。スーリィが居心地悪そうに身じろぎをした。ユリウスのところでも、同じ質の視線が、同じくらいの長さで留まった。
けれど、ランベルトさんのところでは、視線が留まりもせずに外れた。確かめるまでもない、というように。他の四人への視線とは、明らかに種類が違った。何を確かめられているのか分からないまま、私はただその視線をやり過ごすしかなかった。
オルフィンが小さく息をついた。
「リセル様。少しよろしいですか?」
二人が少し離れた場所で、短く言葉を交わした。声は低く、内容までは聞こえなかった。
その間、ユリウスが小声で聞いてきた。
「今、様、って呼ばれてたよな?」
「そう聞こえたね」
スーリィが首を傾げた。
「普通の先生じゃないの?」
「私たちが知っているのは普通の先生なんだけど、どうなんだろ」
リュートは何も言わなかった。気にした様子すらなかった。
戻ってきたフェルウィン先生とオルフィンが、私たちの方に向き直った。オルフィンがもう一度、私たちを見た。
「イェルナの滞在自体は問題ありません。正式な回答まで、街の中でお過ごしください」
「ありがとう」
フェルウィン先生の言葉に、オルフィンは小さく頷き、詰所の中へ戻っていった。
「正式な入国には少し時間がかかるそうよ。この街で返事を待ちましょう」
「どのくらいですか?」
「分からないわ。オルフィンの一存では決められないことだから」
ユリウスがさらに聞いた。
「先生、さっき「リセル様」と……」
フェルウィン先生は言葉を遮るように話した。
「さあ、早く宿に行って休みましょう。さすがに疲れたわ」
はぐらかすような笑みを見せただけで、それ以上は答えず、足早に歩き出した。ユリウスは釈然としない顔をしていたが、それ以上追及することはなかった。
街の中を、宿を探して歩いた。すれ違うエルフたちが、私たちを見てはヒソヒソと何かを話しているのが見えた。声までは聞こえなかったが、良い話をしているようには見えなかった。夕暮れの街灯りが灯り始め、その橙色の光の中で、私たちだけが場違いに浮いているような気がした。




