第119話 久しぶりね、アリシア
(アリシア視点)
膝が、今にも崩れそうだった。
全員の無事を確かめた、その直後だった。安堵がまだ体の芯まで届いていないうちに、新しい緊張が押し寄せてきた。霧の向こうに、まだ何が潜んでいるかわからない。その警戒だけが、かろうじて足を地面に踏みとどまらせていた。
その女性の姿を見たユリウスが、即座に構えを取った。構えた手には、まだ先ほどの戦闘の硬さが残っていた。伸ばした腕が、わずかに震えていた。声だけは、揺らがなかった。
「貴様は誰だ!」
鋭い声だった。霧が完全に晴れたわけではなく、まだ周囲には薄い靄が漂っていた。その中に立つ女性は、灰色がかったローブを纏い、フードを軽く後ろに下げていた。長い髪が、靄の中でかすかに揺れていた。ただ一つだけ、人間とは違う特徴があった。
耳の先が、尖っている。
——エルフ。人間に迫害され、人前に姿を晒すことがなくなった種族が、どうしてここに。
それでも胸の奥で、別の感情がゆっくりと広がっていった。
「目的を言え」
ユリウスは、半歩も引かなかった。精霊術の構えを崩さないまま、視線だけを周囲に走らせた。背後に庇うように、リュートとの間合いを保っていた。
「待って」
私は、ユリウスと女性の間に立った。
「ブランデル、何をしている」
「確かめたいことがあるの」
そう答えながら、女性の顔を、じっと見つめた。フードに半分隠れたその輪郭に、見覚えがある気がしてならなかった。胸の奥で、何かが小さく震えた。
「あなたは、もしかして——先生ですか?」
声が、思わず上ずった。最初に名前を呼ばれた瞬間から、薄々気づいてはいた。けれど、逃げることを優先していたから、確かめる余裕がなかっただけだった。
「久しぶりね、アリシア」
その声を聞いた瞬間、確信に変わった。張り詰めていたものが、喉の奥から一気にこみ上げてきた。泣きそうになるのを、かろうじてこらえた。
「やっぱりそうなんですね!」
胸がふっと軽くなった。先生が、助けてくれた。この一月、誰にも頼ることのできなかった日々の重さが、その一言だけで少し軽くなった気がした。
「知り合いなのですか?」
ランベルトさんが、剣を下げきらないまま聞いてきた。
「はい、先生に精霊術を教えてもらって、上手くなったんです」
「アリシアお姉ちゃんの先生なの?」
スーリィが、首をかしげながら聞いた。
「そうだよ」
頷きながら答えた。
「だとしてもだ。油断はできない」
ユリウスは、剣先をわずかに下げただけで、まだ完全には収めなかった。声には、わずかな苛立ちが滲んでいた。仲間を救われたことへの安堵と、得体の知れない相手への警戒が、彼の中でせめぎ合っているのが、横顔からも見て取れた。
「ユリウス!」
少し強い口調で、彼の名前を呼んだ。
先生は、そのやりとりを見て、少しだけ笑った。
「バルネルト君、ひどいわ。忘れてしまうなんて」
女性が、ユリウスに向けてそう言った。からかうような響きがあった。
「会ったことなどないだろう」
そう言うと、おもむろに、フードを深く被り直した。
「これでも、ですか?」
声が、弱く震えていた。
——それは、学院でフェルウィン先生が、いつも見せていた姿そのものだった。
フードを深く被り、声を震わせる。私にとってそれは、先生に似ているではなく、先生というあの姿そのものが再現された、という確信だった。授業で何度も見た、人を寄せ付けない佇まい。間違えようがなかった。
「……まさか、フェルウィン先生?」
フードを外しながら、「そうよ」と頷いた。
「フェルウィン先生がどうして……」
声が、自分でもわかるくらい掠れていた。
「ヘルミーネ、いえ——アルトリース学院長にお願いされたのよ。助けてほしいと」
その言葉に、リュートが、またピクリと反応した。うつむいていた肩が、ほんの少し縮こまった。
学院長にまで迷惑をかけてしまった。その思考が、表情の端ににじんでいた。せっかく戻りかけていた光が、また一段と曇った気がした。誰かを巻き込むたびに、彼の中の何かがすり減っていくようだった。
「学院の先生?」
スーリィが、首を傾げた。
「ええ。……あなたの精霊との向き合い方は、いいわね」
フェルウィン先生が、優しい声で言った。スーリィの周りにいる精霊たちが、彼女に対して見せる反応の柔らかさを、見て取っていたのだろう。
フェルウィン先生が、リュートを見た。視線が合っても、リュートは何も言わなかった。先生の目が、一瞬だけ細くなった。先生もそれ以上は問いたださず、ただ静かに見つめ返しただけだった。
「ここでは落ち着かないわ。森国に行きますよ」
「でも、フェルウィン殿。自分たちでここまで来ておいてですが——森国は鎖国しているはずでは?」
ランベルトさんが、剣を鞘に収めつつ、戸惑いながら聞いた。
「大丈夫。私は森国出身なのよ。それに、いい抜け道を知っているの」
森国出身——その言葉が、頭の中で静かに反響した。エルフが、鎖国している森国の出身者が、どうして学院の先生に。問いは次々と湧いてきたが、今それを口にする場ではないとわかっていた。
「詳しい話は、森国でしましょう」
そう言うと、ついてきなさい、というように歩き出した。
全員が頷き、フェルウィン先生の後についていった。
冬枯れの草原に、一行の足音が小さく重なっていった。振り返ると、霧のあった場所には、もう何も残っていなかった。あの男たちが今どこにいるのかさえ、もうわからない。ただ、確かなことがひとつだけあった。今この瞬間、皆が、誰一人欠けることなく、ここにいた。
これ以上を望むのは、贅沢なのかもしれない。そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥には、まだ言葉にならない不安が小さく残っていた。エルドさんとミリアさんのこと、これから向かう国のこと、そして——リュートの心が、いつ元に戻るのか。
足を進めながら、ふと気がついた。
止まっていた精霊のざわめきが、また静かに戻り始めていた。
その変化が、何かのはじまりを告げているような気がしてならなかった。




