第118話 霧の中へ
(アリシア視点)
霧の中から、声が聞こえた。
「アリシア、皆をこっちへ」
その声に、覚えのある温かさを感じた。誰の声か、すぐには思い出せない。いつ、どこで聞いた声なのか。それでも、体の方が先に反応していた。耳に届いた響きの奥に、温かさのようなものが確かにあった。考える猶予はなかった。男たちの怒声と、この声、どちらを信じるかを選ぶより先に、体が動いていた。敵か、味方か。判断する材料などなかった。
次の瞬間には、皆に声をかけていた。
「皆、ついてきて!」
そう言って、精霊術を発動させた。ひとつは、男たちがいたはずの方角に壁を。記憶の中の位置を頼りに、見えないまま発現させた。記憶だけを頼りに精霊術を編ぐのは、これが初めてだった。狙いが少しでもずれれば、男たちを直接傷つけることになる。それだけは避けたかった。指先が震えても、手は止めなかった。もうひとつは、声が聞こえた方向に向けて、光を放った。
「光の方へ!」
男たちの側からは、壁が邪魔をして、この光は見えていないはずだった。賭けに近い判断だったが、迷っている時間はなかった。後ろで、ランベルトさんとユリウスの足音が、迷うことなくこちらへ向きを変えるのがわかった。全員が、同じ光を頼りに動いていた。それだけで、心強かった。
リュートの腕を掴み、走った。リュートは、ただ引かれるままに動いていた。腕を掴まれていることにすら、抵抗を見せなかった。足だけは動いていたが、それすら自分の意志によるものなのか、怪しいほどだった。半分以上、引きずられるようにして進んでいるのが、掴んだ腕の重みでわかった。目だけは、かろうじて開いていた。
「待て」という声が、霧の向こうから聞こえた。
当てずっぽうに放たれたらしい何発もの精霊術が、すぐ近くを飛んでいくのが見えた。光の筋が、霧の中で揺らめきながら通り過ぎていった。風を切る音が、耳のすぐ横を通り抜けた。心臓が、嫌なほど速く打っていた。一歩でも判断を誤れば、それで終わりだ。そう思うほどに、足だけは止めなかった。
ランベルトさんの声がした。何を言っているのかまでは聞き取れなかったが、無事である証だった。その一言が、強張っていた体を、ほんの束の間だけ緩めた。少し遅れて、後ろで何かがぶつかるような音がした。それからほどなく、こちらへ向かってくる精霊術が止んだ。ユリウスだろうと、走りながら思った。
足元の感触すらおぼつかなかった。何が地面で、何が草むらなのか、霧の中では判別がつかなかった。止まれば終わりだということだけは、体のどこかが理解していた。スーリィの呼吸が、だんだんと荒くなっていくのが、握った手の震えから伝わってきた。小さな歩幅で、必死についてきていた。
不思議な感覚に包まれた。
何か、薄い膜のようなものの中に入った——そんな感覚だった。何が起きたのか、はっきりとはわからない。皮膚の表面を、空気とは違う何かが一瞬だけ撫でていったような感触だった。ただ、それからは、精霊術が飛んでくる気配が、ぴたりと止んだ。霧の冷たさだけは、相変わらず肌にまとわりついていた。
足を緩める勇気はなかった。本当に安全なのか、確かめる術がなかった。ふと、あの声のことが頭をよぎった。あの声は——。
スーリィの手は、まだ私の手を強く握ったままだった。リュートの腕も、離さなかった。誰も、声を発しなかった。霧の中、足音だけが続いていた。土を踏む感触、自分の心臓の音、そして誰かの荒い呼吸——おそらくスーリィのものだろう。喉の奥が焼けるように熱く、吸う息は冷たいのに、肺だけが熱かった。それだけが、世界のすべてのように感じられた。どれくらいの距離を走ったのか、もう感覚がつかめなくなっていた。腕の感覚が薄れ始めた頃、ようやく声がした。
「もういいわね」
そう声がしたのと同時に、周囲の霧が、すうっと晴れていった。
見渡すと、近くには、全員がいた。ランベルトさん、ユリウス、スーリィ、リュート——誰も欠けていない。それを確認しただけで、肩の力が抜けそうになった。膝が、わずかに震えていた。立っているだけで、精一杯だった。それほどの距離を、それほどの恐怖の中で、走り続けてきたのだと、今になってようやく実感した。
そして、霧の薄れていく中から、一人の女性が現れた。




