第117話 国境の森
(アリシア視点)
森の中を徒歩で移動するようになって、一か月以上が経っていた。
十二月も、もう終わりに近かった。
森国への移動の途中、何度か街で休むこともできた。けれど、緊張と警戒からか、誰もしっかりと休むことはできていなかった。眠ったつもりでも、物音ひとつで目が覚めた。そんな夜が、ずっと続いていた。固いベッドの感触すら、もう懐かしいものになっていた。持ち出せた路銀も、底が見え始めている。食事の量を、誰からともなく減らすようになっていた。
リュートは、相変わらずだった。
表情も、感情も、すっかり失われてしまったように、ただ下だけを見て歩いていた。話しかけても、短い返事が返ってくるかどうか。それすら、日によって違った。あの夜以来、リュートが自分から何かを話し出すことは、一度もなかった。差し出された食事には、いつからか手をつけるようになっていたが、それも味わっているようには見えなかった。ただ、生きるために必要な動作をこなしているだけのようだった。頬の線は、森に入った頃よりもずっと薄くなっていた。
ランベルトさんは、その横顔を見るたびに、何か言いかけては、結局口をつぐむことが増えていた。
昨日、森国との国境手前の最後の街を抜けた。
ただ、その街が最後であることが、かえって足を遠ざけた。誰からともなく、中に入ることはせず、森の中からその方向を見るだけにとどめた。今、人目につくことだけは、絶対に避けなければならない。
ランベルトさんが前方を、ユリウスが後方を、私が中央で側面を警戒していた。
リュートが、中央をとぼとぼと歩いているため、自然と私が近くにいることになる。それでよかった。誰かが、せめて隣にいるべきだと思っていた。
精霊のざわめきは、まったく感じられなかった。
このところ、ずっとそうだった。いつもなら何かしらの気配を感じ取れるはずなのに、今は何も感じられない。それが、かえって不気味だった。森全体が、息を潜めているような静けさだった。
ランベルトさんが、手を上げた。
「この先からは森から出ないと進めなさそうだ。皆、周囲を確認してくれ」
その声に、私とユリウスも周囲を見渡し、警戒を強めた。
「今見える範囲では大丈夫そうです」
「そうだな」
ユリウスが、私の言ったことに同意した。
「よし、森を出る。警戒は続けてくれ」
ランベルトさんがそう言って、森を出た。皆も、後に続いた。
冬枯れた草原が、目の前に広がっていた。風が強く、頬を刺すように冷たかった。空はどんよりと曇り、今にも雪が降り出しそうだった。
少し歩くと、後ろからいくつもの馬蹄音が響き、地面を揺らした。
後ろを見ると、一月前に遭遇した一団と同じ格好の集団が、倍くらいの人数になって、迫ってきていた。
「走れ!」
ランベルトさんが叫んだ。
全員が走り出した。隣を見ると、リュートの足取りだけが、明らかに遅れていた。下を向いたまま、足が地面に絡みつくように鈍い。それで、全員の足が止まった。
そうしているうちに、周りを囲まれていった。正確には、進行方向だった後方だけが、わずかに空いていた。
リュートは、止まっていた。下を向いたまま、何も反応していなかった。囲まれていることにすら、気づいていないようだった。
黒の法衣に銀の縫い込みの装束に、腕章をつけた男が、馬から降りた。
それを合図にしたかのように、他の者たちも次々と馬から降りていった。
男が、口を開いた。
「リュート・アーデンだな。拘束する」
出頭を促す言葉ではなかった。最初から、拘束を前提とした言葉だった。逃亡したという事実が、もう、それ以外の選択肢を消し去っていた。
その声を合図に、鎧をつけた者たちが、じりじりと距離を詰めてきた。誰の表情にも、ためらいの色はなかった。これが任務として、何度も繰り返してきた行為であることが、その動きの滑らかさからもわかった。
ユリウスが、精霊術を放った。
だが、その術は、何かに触れた瞬間にかき消えた。先頭近くにいた者が、表情も変えずに防御を続けていた。一月前と同じ、見覚えのある手応えのなさだった。
ランベルトさんが、剣を抜いて斬りかかった。
金属音が一つ鳴った。それだけだった。ランベルトさんの剣が、相手の剣にあっさりと弾かれた。逆に斬り返され、間一髪で下がった。服の袖が浅く切られただけで済んだのは、運がよかったとしか言いようがなかった。
——このままでは。
誰もがそう思った瞬間だった。
あたりに、霧が立ち込め始めた。
最初は薄く、視界の端をぼかす程度だった。だが、それはみるみるうちに濃くなっていき、すぐに、数歩先の人影さえ見えなくなった。
「ランベルトさん!ユリウス!」
声を上げても、霧の向こうの返事は、妙に遠かった。スーリィが、私の手をぎゅっと握りしめてきた。震えているのが、伝わってきた。リュートの腕も、もう片方の手でしっかりと掴んだままだった。離してはいけない。それだけは、はっきりとわかっていた。
「何事だ」
「吹き飛ばせ」
声が聞こえた。風を起こすような精霊術の音も聞こえてきた。けれど、霧に変化はなかった。
いくら風を送っても、霧は晴れなかった。普通の霧ではないのだと、誰もが気づき始めていた。
何が起きているのか、私にもわからなかった。
ただ、囲まれていたはずの輪は、霧に呑まれて消えていた。それだけが、確かなことだった。




