第115話 言葉のない夜
(アリシア視点)
森に入っても、走り続けた。幸い、魔物には遭遇しなかった。それだけが、唯一の救いだった。
走り続けているうちに、あたりはすっかり暗くなっていた。木々の隙間から覗く空は、もう星の瞬きしか見えない。冷たい空気が肺を刺し、吐く息のたびに白い塊が散っていった。
その時、ランベルトさんが声を出した。
「一旦止まろう」
その声に、ようやく皆の足が止まった。
肩で息をしながら、それぞれが木の幹に手をついたり、その場にしゃがみこんだりした。汗が、冷えた風にさらされて、急速に体温を奪っていった。
「ひとまず、追手はなさそうだな」
ユリウスが、後ろの方を見ながら言った。
「そうね」
それだけ答えるのが、精一杯だった。喉が、からからに渇いていた。
「少し休んだら、しっかりと休める場所を探そう。そこで今後のことも話したい」
ランベルトさんがそう言うと、皆が頷いた。それぞれが、その場で休み始める。ランベルトさんだけは立ったまま、後ろの方を警戒していた。剣の柄にかけた手が、ふいに強く握り込まれ、革のきしむ小さな音を立てた。
リュートの声は、いつの間にか消えていた。
ただ茫然と、地面に座り込んでいた。その瞳は、何も映していないようだった。膝を抱えた背中が、いつもより一回り小さく見える気がした。
その側に、スーリィが心配そうに座っていた。何か声をかけたいのに、どう声をかければいいのかわからない——そんな表情だった。小さな手が、何度もリュートの方へ伸びかけては、止まった。
それは、私も同じだった。この場にいる全員も、きっとそうだった。
沈黙が訪れた。木々の枝葉がこすれ合う音、風が通り抜ける音だけが、あたりに響いていた。遠くで、梟らしき鳴き声がひとつ、短く響いて消えた。
ランベルトさんが、リュートを見た。
「リュート、今は逃げ延びることだけを考えるんだ」
落ち着いた声だった。けれど、リュートは動かなかった。返事も、言い返すこともなかった。
ランベルトさんの顔に、一瞬だけ陰が差した。悲しみとも、また違う——言葉にするのが難しいものだった。口を結んだまま、リュートをしばらく見ていた。見ていて、何かを言いかけて、やめた。それでも、すぐにいつもの表情に戻った。
「皆、休めたかな?夜の森は危険だが、移動しよう」
「この場所には見覚えがある。向こうの方に、卒業試験で拠点にした場所があるはずだ」
ユリウスが言った。
その言葉に、リュートがピクリと反応した。視線が一瞬、定まらなかった。喉の奥で何かを呑み込むような小さな動きがあった。けれど、すぐにまた、もとの虚ろな表情に戻ってしまった。
「そうか。ユリウス殿、すまないが、案内をしてくれないだろうか?」
「構わない」
「ありがとう」
ランベルトさんが、感謝の言葉を伝えた。
「アリシア様は、リュートの傍にいてやってください。スーリィも。俺は後方を見張る」
移動が始まった。誰も、何も話さなかった。リュートはうつむき、力なく歩いていた。そのリュートを、私とスーリィで挟むようにして進んだ。腕に触れる体温だけが、リュートがまだここにいるという唯一の確かさだった。
しばらく歩くと、木々が薄くなってきた。
「止まれ」
ユリウスが言った。人がいないか、確認しているようだった。
「大丈夫そうだ」
そう言って、再び歩き出した。それについていくと、開けた場所に出た。
確かに、卒業試験のときに拠点となった場所だった。
地面が大きくくぼんでいたり、木々が折れていたりと、九か月前の戦闘の痕跡が、まだそこかしこに残っていた。あの時もここで、夜を明かした。今と同じように、誰かを失いかけた夜だった。
「今日はここで休むとしよう」
ランベルトさんが提案すると、皆、無言で頷いた。
「これからどうするの?」
スーリィが、聞いた。
「馬車から持ち出せた物資は少ないが、壊れた馬車や近くの街も、警戒されている可能性が高い。このまま森国を目指すしかないんだが……」
ランベルトさんの声には、本当はそれが容易ではないとわかっている響きがあった。
「ここから森国まではまだだいぶ距離がある。警戒しながら徒歩での移動では限界があるぞ」
ユリウスはそう言うと、それ以上のことは口にしなかった。どのくらいかかるのか、私にも見当はついていた。声に出して数字にしてしまえば、それだけで何かが崩れそうだった。
「そうだな。でも、まだ森の外に出るのは危険だ。やはりしばらくは森に隠れて移動するしかないだろう。街が見えたら、中の様子を確認して、問題なさそうであれば入り、無理そうなら先に進む。移動は森の中、といったところか」
「厳しいな」
ユリウスが呟いた。
森国までの距離を頭の中で数えると、知らず息を呑んでいた。一か月。それだけの日数を、こうして気を張ったまま歩き続けるということだ。怖くないと言えば嘘になる。それでも、立ち止まる理由にはならなかった。
私は、リュートを見た。
いつもなら、何か意見のひとつくらい言うはずだった。けれど今は、その言葉すら耳に入っていないように見えた。膝を抱えたまま、組んだ手の甲を、ただぼんやりと見つめていた。焚き火はまだ熾していなかった。煙が痕跡になることを、誰もが避けたがっていた。
「とにかく今日はもう休もう。体力を回復させないと」
ランベルトさんが言った。少しだけ、視線がリュートの方に動いたような気がした。それから、ほんの一瞬だけ、来た道の方角に目をやった。すぐにまた、リュートの方へと視線を戻した。
スーリィが、干し肉を一切れ、そっとリュートの前に差し出した。リュートは、それに気づいた様子もなかった。視線は、変わらず手の甲に注がれたままだった。スーリィは、しばらくそれを持ったまま、やがて諦めたように、自分の隣にそっと置いた。誰も、何も言わなかった。
そうして、皆、毛布にくるまり、横になった。
目を閉じると、エルドさんと目が合った、あの一瞬が蘇った。
何かを悟ったような、静かな目だった。あの時、確かに理解していた。それでも、何も言えなかった。言葉にしてしまえば、何かが決定的に変わってしまう気がして、ただ頷くことしかできなかった。
私は、しばらく眠れなかった。
木々の間を抜ける風の音。遠くで、何かの動物が鳴いた。普段なら気にも留めない夜の音が、今夜はやけに大きく耳に残った。冷たい地面の感触が、毛布越しにも伝わってきた。
隣で、スーリィがリュートの方を、何度も見ていた。寝返りを打つふりをしながら、確かめるように。
リュートは、横になったまま、目を開けたままだった。何も言わず、ただ、闇の中の一点を見つめていた。
声をかけようと、何度も思った。けれど、かける言葉が、どうしても見つからなかった。今、何を言っても、届かない気がした。
いつの間にか、眠っていたらしい。
翌朝になった。魔物も、追手も来なかった。それだけが、せめてもの救いだった。
冷たい朝の空気の中、皆、無言で身支度を整えた。白く凍った息が、目の前で散っていく。立ち上がると、全身の筋肉が一斉に痛んだ。それだけ昨日走ったのだと、体の方が正直に教えてきた。リュートも、自分で荷物を背負った。それだけで、束の間、安堵できた。歩けないわけではない。ただ、その目には、まだ何の光も戻っていなかった。
準備を終えると、また森の中を歩き始めた。
行く先に、何が待っているのか。誰も、口には出さなかった。




