第113話 託す
(エルド視点)
「森へ走れ!」
声を張り上げた。
馬車を捨て、皆が一斉に走り出した。背後から「止まれ」という声が追いかけてきたが、誰もそれに従う素振りを見せなかった。聞こえていないかのように、ただ森を目指して走った。冬の夕闇が、足元の輪郭をすでに曖昧にし始めていた。吐く息が白く尾を引き、土を蹴る足音だけが規則正しく響いていた。
森まであとわずかというところで、目の前に何もない空間が、突然、壁になった。透明な力の膜が、進行方向を塞いでいた。精霊術の壁だった。
足が止まった。後ろを振り返ると、鎧を纏った者たちが、輪を狭めながら迫ってきていた。鎧の擦れる音、足音、息遣い。それらが、確実に距離を詰めてくる音として耳に届いた。
バルネルト殿が精霊術の構えを取り、ランベルトが剣の柄に手を掛けた。アリシア様が、スーリィをすばやく自分の後ろに下げた。リュートも、剣を抜いて構えていた。
バルネルト殿が炎を放った。だが、その炎は、何かに触れた瞬間にかき消えた。
アリシア様も続けて精霊術を放ったが、それも同じように防がれた。医官と思しき女が、表情ひとつ変えずに両者の精霊術を受け止めていた。攻撃の手段は持たない代わりに、防御と回復に特化した相手なのだろう。
これでは、押し切れない。
皆の方を向いた。
もう、迷っている時間はなかった。最初からわかっていたことだった。ここまで来てしまえば、選べる道は、もうほとんど残っていない。十年以上、従士長としてこの身に叩き込んできた覚悟だった。仕えるべき者を、守るべき者を、最後まで守り抜く。それだけが、ずっと変わらずに胸の内にあった。
バルネルト殿と、アリシア様と目が合った。何かを言葉にする前に、二人の表情が変わるのがわかった。こちらの意図を悟ったような顔だった。
スーリィを見た。それから、リュートを見た。
険しい表情のままだったが、ほんの少しだけ、頬の力が緩んだ。剣の素振りを初めて教えた日、危なっかしい手つきで木剣を振っていた小さな背中が、瞼の裏をかすめた。それ以上は、見なかった。
最後に、ランベルトを見た。
「ランベルト」
名前を呼んだだけだった。それ以上、何も言葉にする必要はなかった。
これからは、お前が守るんだ。
ランベルトの口が開き、すぐに閉じた。喉が、ゆっくりと上下した。それだけで、何かを飲み込んだのだとわかった。ランベルトの手が、剣の柄から静かに離れた。言葉にしなかったその想いを、ランベルトは確かに受け取ったようだった。
「行くぞ!」
叫ぶと同時に、ランベルトがリュートの腕を掴んだ。強引に引っ張り、走り出した。
「ちょっ——」
リュートの声が上がったが、ランベルトは構わず走った。アリシア様がスーリィの手を引いて続き、その後ろをバルネルト殿が追っていった。
少しだけ、その後ろ姿を見た。必死にこちらを振り返ろうとするリュートの顔が、一瞬だけ見えた。
十分だ。もう十分に見た。
前を向き、鎧の者たちの方へと向き直り、剣を構え直した。
隣には、ミリアがいた。
言葉はなかった。それでよかった。これまでの年月の中で、言葉にしなくても伝わるものが、二人の間にはいくつもあった。今はそのうちのひとつを、確かめるだけでよかった。
後ろの方から「兄さん、離せ」という声が、まだ聞こえていた。
ミリアを見た。ミリアも、こちらを見ていた。一瞬、目が合った。
目元が、ふっと緩んだ。笑ったのだと、すぐにわかった。
前を向き、二人で走り出した。鎧の男たちとの距離が、急速に縮まっていった。剣を握る手に、力を込めた。守るべきものは、もう背中にしかない。それだけで、十分だった。
——————
(リュート視点)
腕を強く引かれていた。
その手は、痛いほど強く、それでいて、かすかに震えているようにも感じた。
わけがわからなかった。
兄さんに「離せ」と言っても、無理矢理、足だけがもつれるように前へ前へと運ばれていった。木の根や下草が足にまとわりつき、何度も転びそうになった。それでも、止まることは許されなかった。
アリシアもユリウスも、何も言わずに走っていた。スーリィは足元を気にしているのか、アリシアと手を繋がれたまま、下を向いて走っていた。それだけを、ずっと言い聞かせられたかのように。
——どうして、誰も振り返らないんだ。
そう思った瞬間、視界の端で、父さんと母さんが鎧の者たちに向かって走り出すのが見えた。
二人では無理だ。そもそも母さんは、戦える人じゃない。
母さんが、地面に組み伏せられた。声はなかった。倒れる音だけが、こちらまで聞こえた。
父さんは剣で打ち合っていたが、鎧の男の一撃に剣が折れ、そのまま倒れた。
——え。
それ以上、何も考えられなかった。倒れた父さんが、生きているのか、死んでいるのか。距離があって、わからない。動いているのかどうかさえ、わからなかった。視界が、急に狭くなったような気がした。心臓だけが、やけに大きな音を立てていた。
「兄さん、離せ。父さんと母さんが。まだ、今なら助けられる。間に合う」
声が、震えていた。
兄さんは、何も言わなかった。腕を掴む力は、緩まなかった。
地面に押さえつけられている父さんと母さんの顔が、こちらを見ているような気がした。距離があるせいで、表情までは見えなかった。ただ、顔の向きだけが、なんとなくわかる程度だった。
どうして、こうなった。どうして兄さんは振り返らない。どうしてアリシアもユリウスも、何も言わない。
わからない。
わからないことだらけだった。
ただ、はっきりとわかることが、ひとつだけあった。
この状況を招いたのは、俺だ。
森への道を逃げながら、その一つの事実だけが、頭の中で繰り返し響いていた。何度も振り払おうとしたが、振り払えるものではなかった。足はもう、自分の意志で動いているのかどうかさえわからなくなっていた。
「森に入るぞ」
ランベルトの声が、森の入口で響いた。
足が勝手に動いていた。木々の間に飛び込み、暗がりの中へと吸い込まれていった。背後で響いていた剣戟の音が、少しずつ遠ざかっていった。
何も聞こえなくなった。
聞こえなくなったことが、何よりも怖かった。




