第112話 検問
(リュート視点)
十一月中旬。逃亡を開始して、一ヶ月が経っていた。
幌の隙間から差し込む夕暮れの光が、荷台の床に細い筋を描いていた。馬車の振動に合わせて、その筋がゆっくりと揺れていた。隙間から見える街道の景色は、傾いた陽に赤く染まり、どこか、記憶の奥を刺激する景色に変わっていった。葉を落とした木々の合間を、冷えた風が吹き抜けていった。吐く息はまだ白くならない程度だが、夜になれば確実に肌を刺す寒さに変わるはずだった。
——この道、覚えている。
森が近づくにつれて、確信に変わった。卒業試験の森だった。九か月前、ここで迷い魔と相対した。剣に精霊術を纏わせた、あの一瞬のことが頭の奥をよぎった。あの剣は、今もまだ再現できていない。何度も剣を握り直してみても、あの時のような感触は一度も返ってこなかった。あの時だけの、一度きりの現象だったのだろうか。
この一ヶ月、馬車に揺られながら考える時間だけは、嫌でも増えていった。けれど、答えの出ない問いを抱えたまま、それでも前に進むしかない日々だった。
考えかけたところで、御者台から声が飛んできた。
「人影が見える。リュートは隠れておけ」
父さんの声だった。低く、短く、逆らう余地のない声だった。その声を聞いた瞬間、体が勝手に動いていた。
荷台の隅に置かれた木箱に、身を滑り込ませた。外から見れば、人ひとりが入るには小さすぎる、ただの食料箱にしか見えない代物だった。実際には底のない箱を二つ繋げてあり、膝を抱えて体を丸めれば、なんとか収まるだけの空間ができていた。誰が考えたのか忘れるほどに、この一ヶ月で何度も使ってきた隠れ場所だった。
兄さんが、蓋を静かに閉めた。
木の継ぎ目から、わずかに外の光が差し込んでくる。埃と乾いた木の匂い。膝を抱えた姿勢のまま、馬車の振動が骨を通して直接伝わってくるのを感じていた。最初の頃は、この暗闇と狭さに息が詰まりそうになった。今では、目を閉じて呼吸を整えることくらいは、自然とできるようになっていた。それが慣れなのか、ただ鈍くなっただけなのか、自分でもわからなかった。
父さんの手綱捌きは、いつも通り安定していた。馬の足音と車輪の音だけが、規則正しく続いていった。
大丈夫だ。この一ヶ月、何度もこうして隠れてきた。
そう思おうとした。思おうとするほど、箱の中の暗闇が、いつもより少しだけ重く感じられた。理由はわからない。ただ、森の匂いが濃くなっていくのを、隙間越しに感じていた。
——————
(エルド視点)
馬車の進行方向、街道の先に人影が見えた。
手前に二人。その奥に、さらに五人。奥の五人は、馬を降りることもなく、ただ無言で街道の先を固めていた。
手前の一人は黒の法衣に白銀の縁取りの装束、もう一人は銀の鎧に白銀の縁取りの黒のマントを纏っていた。腕章とマントの両方に、八角形の中に鎖の巻かれた剣の意匠が刻まれていた。奥の五人も同じ銀の鎧だったが、一人だけ、マントの意匠が違った。鎖に巻かれた剣ではなく、鎖に巻かれた十字架だった。
教会の人間だ。それも、ただの神官や神父ではない。誰を探しているのか、考えるまでもなかった。
この一ヶ月、人影が見えるたびにリュートを隠し、やり過ごしてきた。最初の頃は手綱を握る指先が震えた。今は、表情を固めることだけに意識を向けられるようになっていた。それが進歩なのか、それとも何かを擦り減らした結果なのか、自分でもわからなかった。荷台の後ろに座る家族の顔を、振り返らずとも思い浮かべることができた。彼らを守るためなら、震える手も、平静を装う顔も、いくらでも作ってみせる。腹の底で、その覚悟をもう一度固めた。
法衣の男が馬車の進行方向に立ち、片手を挙げた。止まれ、という意味だと理解するのに間はいらなかった。手綱を引き、馬車を止めた。
男が歩み寄ってきた。声は穏やかだった。だが、その穏やかさの奥には、隠しようのない冷たさがあった。
「旅の方とお見受けします。我々は逃亡者の追跡を行っております。念のため、通行の確認をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、構いません」
声が震えなかったことに、自分でも少し驚いた。手綱を握る指先には、じわりと汗が滲んでいた。木箱の中にリュートがいる。そう簡単に見つかるはずがない。
男たちは馬車の後ろに回り、検めを始めた。法衣の男が客室の幌をめくった。
客室には、ミリア、スーリィ、アリシア様、ユリウス殿が座っていた。スーリィの肩が、わずかに強張るのが見えた。声は上げなかった。ユリウス殿は、腕を組んだまま、静かに前を向いていた。ランベルトが御者台の後ろから降り、鎧の男に応対していた。落ち着いた声だった。
家族で旅をしているように見えるはずだ。そう見えてくれと、祈るような気持ちで思った。
荷台の確認が始まった。布をめくり、麻袋を押し、積み荷の隙間に視線を這わせていった。男の手つきは無駄がなく、完全に慣れた動きだった。いくつもの荷馬車を、こうして調べてきたのだろう。その手が、リュートの隠れている木箱に、少しずつ近づいていった。
心拍が、明らかに速くなっていくのがわかった。顔には出すまいと、奥歯を強く噛んだ。手綱を持つ手だけは、決して動かさなかった。
法衣の男の手が、木箱のすぐ脇を通り過ぎていった。
「ご協力ありがとうございます。どうぞお通りください」
息を、静かに吐いた。安堵が、体の奥からじわりと広がっていった。手綱を引き、馬を歩かせようとした——その時だった。
「その箱はなんだ?」
声がした。鎧の男だった。
全員の視線が、一斉にこちらを向いた。木箱に。
「……ただの食料や着替えが入った箱です」
ランベルトが、努めて平静な声で答えた。声に乱れはなかったが、その背中にわずかな硬さが滲んでいるのがわかった。
「開けて中を見せよ」
鎧の男が、間を置かずに言った。有無を言わせない口調だった。
ランベルトと目が合った。一瞬だけだった。それで十分だった。
手綱を、思い切り引いた。
前を向き、「ハッ!」と声を出す。手綱を前に押し出し、馬の腹を蹴った。馬車が、勢いよく走り出した。
一拍遅れて、法衣の男の声が追いかけてきた。
「止まれ!」
止まれるはずがなかった。止まるという選択肢は、もうどこにもなかった。
車輪が街道の石を弾き、荷台が大きく跳ねる。客室から短い悲鳴が聞こえた。スーリィの声だとわかったが、振り返る余裕はなかった。
次の瞬間、馬車が揺れた。
走行中の振動とは、明らかに違う揺れだった。
地面そのものが揺れ、爆発音が響いた。車軸が砕け、馬車が大きく傾いた。身体が横へ引きずられるように持っていかれ、そのまま地面に落ちた。馬車が軋んだ音を立てて止まった。
精霊術師だ――そう理解するのに時間はかからなかった。
「出ろ!」
ランベルトの声が響いた。倒れた馬車の脇で身を起こした。
ランベルトの声を合図にしたように、荷台の木箱の蓋が内側から押し開けられ、リュートが、転がるようにして馬車から降りていった。
鎧の男が馬車に向かって手を伸ばしていた。少し離れた場所にいた鎧を纏った者たちが、動き出していた。
逃げ場は、もう残されていなかった。




