第110話 短い返事
(リュート視点)
スーリィと並んで、どれほどの時間、空を見ていただろうか。星は変わらず輝き、風だけが時折、岩肌を撫でるように吹いていった。見ている間、会話はなかった。それでよかった。言葉にしてしまえば、胸の奥の何かが崩れてしまう気がした。
丘の下の方から、足音が聞こえてきた。
その方向を見ると、アリシアとユリウスが近づいてきていた。
「おまたせ」
アリシアが言い、
「そろそろ出発だ」
ユリウスが言った。
スーリィと顔を見合わせた。それから立ち上がり、皆の下に向かって歩き出した。
精霊のざわめきが、少しずつ静かになっていった。村を包んでいたあの気配が、一歩進むごとに遠ざかっていった。空の星だけが、変わらず輝いていた。
――――――
ブランドルフを出てからの数日間は、人目の少ない道ばかりを選んで進んだ。大きな村は避け、夜は野営を重ねた。グランヴァルクが近づくにつれ、今度はあえて人通りの多い街道を選んだ。
馬車でその街に入った。以前と変わらず、黒槍塔は高くそびえ立ち、空気は引き締まっていた。卒業の挨拶で訪れた時と、街そのものは何も変わっていないはずだった。精霊のざわめきも、変わらなかった。ただ、感じ方が違った。あの時は知っている場所のざわめきだった。今は同じざわめきでも、自分たちの置かれている状況が、それを別のものに変えていた。
宿を取った。荷物を置き、少し息をついてから、皆で街へ出た。
人通りの多い大通りを前に、気づけば、人混みを避けるように足が動いていた。
「見られた方がいい」
兄さんが、俺の肩を軽く叩いた。
「帝国に向かったと思わせるためには、な」
父さんが頷きながら言った。
夕方、アリシアと市場の端を歩いていた。人通りはまだ多く、商店の軒先から漂う料理の匂いが、夕暮れの空気に混じっていた。誰かに見られているかどうかはわからなかった。だが、今はそれでよかった。
市場には、夕暮れ前の活気が満ちていた。果物を並べる商人の声、布地を選ぶ女たちの笑い声、酒場の前で言葉を交わす男たちの姿。何も変わらない、いつも通りの光景だった。その変わらなさが、今の自分たちの状況とかけ離れていて、胸の奥に奇妙な違和感を残した。
「ホフマン神官様とベルクマン神父様に、会いに行かなくていいの?」
アリシアが聞いた。
少し考えた。グランツィリアへ向かう前、入学のことで世話になった二人だった。あの頃の記憶は、今でも温かいまま残っている。
「行かない方がいいと思う」
アリシアの視線が、教会の方向へ動いた。少し考えるような間があった。それから、前を向いた。
「そうね」
アリシアは、それ以上聞かなかった。
会えば、自分たちの足跡が、また一つ残ってしまう。それが二人に迷惑をかける可能性につながるかもしれない。会いたい気持ちはあった。それでも、迷惑をかけたくないという気持ちの方が、わずかに上回っていた。
教会の方向を、一度だけ見た。それだけだった。
精霊が、かすかにざわめいた。すぐに静まった。
黒槍塔の影が、夕日の中で長く伸びていた。夕日が、街の屋根の向こうへ沈んでいく。市場の喧騒の中、二人はそのまま歩き続けた。宿に戻ると、階段が軋む音を立てた。
――――――
宿の一室で、机に向かっていた。窓の外には、すでに夜の色が広がっていた。机の上には、宿の主人から借りた紙と、羽ペン、それからインク壺が並んでいた。
羽ペンを取った。しばらく、その先が紙の上で止まったままだった。何から書けばいいのか、どこまで書けばいいのか、決まらなかった。書こうとしている相手の顔を思い浮かべると、余計に言葉が出てこなくなった。
ペン先に絡んだインクが、紙に触れることなく、少しずつ乾いていくのがわかった。階下から、誰かの笑い声がかすかに届いた。一瞬、顔を上げ、また机に向き直った。
ペン先を紙に下ろした。宛名には、ヴァルデンブルクの名を記した。
まず、感謝のことを書いた。これまでかけてもらった世話、向けてもらった信頼。それから、これから王国を出ること、世話になっていたというだけで、ヴァルデンブルク様やアマーリエ様にまで疑いの目が向くかもしれないこと。そして、それでも、こうするしかなかったということを書いた。
最後に、いつかまた、と書こうとして、手が止まった。
その言葉が、嘘になってしまうかもしれない。そう思った。それでも、書かないわけにはいかなかった。今、自分が本当に願っていることだったから。
ペンを置き、文を折り、封をした。
階下へ降り、宿の主人に声をかけた。
「手紙を届けてもらえますか?」
「わかりました」
宿の主人は短く答え、手紙を受け取った。それ以上、余計なことは言わなかった。
――――――
翌朝。出発の準備をしていると、宿の主人が一枚の封筒を持ってきた。
「お手紙です」
そう言って、渡してきた。
受け取り、封を開けた。
短い文だった。
「受け取った。達者でいろ」
それだけだった。
ヴァルデンブルクらしい返事だった。多くを語らない人だった。けれど、その短さの中に、否定していないという意味が確かにあった。受け取った、達者でいろ――それ以上でも、以下でもない。それでも、十分だった。
手紙を折り畳んで、懐にしまった。胸の奥に、小さな重みが残った。それは悲しさとも安堵とも違う、言葉にしづらい静かな感情だった。
「行くぞ」
父さんが言った。
「はい」
答えて、荷物を肩に掛けた。
――――――
グランヴァルクを出た。南へ向かった。
振り返らなかった。振り返れば、足が止まりそうな気がした。
歩き出してすぐ、精霊のざわめきに、かすかな乱れを感じた。西の方向――ドミニア正教国のある方角から、何かを探るような、落ち着かない気配が伝わってきた。これまで感じたことのない種類のざわめきだった。
出頭命令を携えた者が、動き出しているのかもしれない。考えを、そこで打ち切った。今は、前へ進むしかなかった。
空は高く、街道の先には、どこまでも続く乾いた土の道があった。
まだ、先は長かった。




