第109話 それぞれの別れ
(リュート視点)
翌日の夜、再び、領主の館に全員が集まった。ただ、今度は別れの挨拶をするためだった。昨夜と同じ部屋のはずなのに、灯りの色も、漂う空気の重さも、まるで別の場所のように感じられた。ユリウスもその場にはいたが、少し離れた場所で、ただ皆の様子を眺めていた。
「元気でな」
ガレス様が、短く言った。
「ご迷惑をおかけしてしまい、すみません」
俺は、謝ることしかできなかった。本当はもっと言いたいことがあったが、それを言葉にした瞬間、何かが決壊してしまいそうだった。
「気にするな。今は逃げ延びることだけを考えろ」
「すみません。ありがとうございます」
ガレス様たちにそう言って、その場を後にした。これ以上、その場に居続けることができなかった。皆の顔を見ていると、何かが崩れてしまいそうだった。
歩き出した俺を、ユリウスが静かに見送っているのが見えた。
館を出た後は、丘の上に向かった。夜風は、館の中で感じていたものよりもずっと冷たかった。歩くうちに、館の灯りが背後で小さくなっていった。岩に背を持たれて座り、空を眺めた。夜は澄んでいて、星が一つ一つ、はっきりと見えた。風の冷たさが、頬に染みた。乾いた草の匂いが、風に乗ってかすかに漂ってきた。
少しすると、足音が近づいてきた。スーリィだった。隣に腰を下ろした。
「挨拶は終わったのか?」
「うん、終わったよ」
それだけ答えて、スーリィは膝を抱えるように体を縮め、空を見上げていた。一度、顔がこちらを向き、視線が俺の顔を、確かめるようにゆっくりと追った。皆の前では、ずっと落ち着いた顔をしていたつもりだった。だが、うまくできていなかったのかもしれない。それから、何も言わず、また星空へ視線を戻した。沈黙だけが、二人の間に流れていた。星は揺らぐことなく、ただそこにあり続けていた。
――――――
(領主の館 ガレスの執務室)
書棚に並んだ書類の影が、燭台の灯りに揺れていた。長年、この部屋で何度も向き合ってきた二人――ガレスとエルドが話していた。
エルドは、しばらく黙ったままだった。それから、静かに頭を下げた。
「努めを全うできず、申し訳ありません」
頭を下げたまま、しばらく顔を上げなかった。
「良いと言っているのだがな。お前はそういうやつだよな」
ガレスは、苦笑した。
エルドが、ようやく顔を上げた。困ったような、それでもどこか安堵したような、複雑な表情をしていた。
「皆を守れよ。アリシアを頼む」
「はい」
「いつか、皆で必ず戻ってこい」
ガレスが、真剣な目でエルドに言った。
「はい、必ず」
エルドが、同じ目でガレスに答えた。
窓の外、夜の闇が、二人の影を黒く長く伸ばしていた。
――――――
(領主の館 マリナの私室)
いつも焚かれている薫の香りが、変わらず部屋に漂っていた。その変わらなさが、今この時だけ、どこかよそよそしく感じられた。マリナとミリアは、卓を挟んで向かい合っていた。
マリナは、卓に置かれた花瓶の花を、そっと整えながら口を開いた。
「あの子をお願いね」
「ええ、わかっているわ」
ミリアが、マリナの手を取って言った。
「ありがとう」
ミリアが、笑顔で言った。その「ありがとう」には、これまでの暮らしのこと、送り出してくれたこと、アリシアを任せてくれたこと――いろいろなことへの感謝が込められていた。マリナも、それをわかっていた。
「いいわ。また、一緒にお茶を飲みましょう」
マリナも、微笑んでいた。
「ええ、また、皆で飲みましょう」
ミリアは笑顔のままだったが、その奥に強い意志がわずかに覗いていた。卓の上に置かれたままの、二人分の茶器が、灯りの下で静かに光っていた。
――――――
(領主の館 エリオットの私室)
他の部屋よりも、灯りの色が幾分か暖かかった。エリオットの私室では、エリオットとランベルトが向かい合って話していた。
「うちのお転婆を頼むな」
エリオットが、笑いながら言った。
「もう、昔みたいにお転婆ではなくなったろ」
ランベルトは、苦笑した。普段、エリオットに対しては敬語を使うランベルトだったが、二人きりのときだけは、その言葉が砕けたものに変わる。子どもの頃から続いてきた、二人だけの距離だった。
「森国か。いつかは私も行ってみたいな」
「じゃあ案内できるようになっておくから、そのうちガレス様とミリア様も連れて遊びに来るといいさ」
「そうだな」
二人は、しばらく笑いあった。
その後、しばらくの間、二人とも何も言わなかった。笑顔が、少しずつ真剣な顔に変わっていく。窓の外で、夜風が鎧戸を小さく鳴らした。互いの顔を見合った。
「元気でな、ランベルト」
エリオットが、手を出した。
「エリオットも」
ランベルトが、その手を握った。手のひらに残った温もりは、しばらく消えなかった。
――――――
(領主の館 玄関ホール)
玄関ホールには、すでに人の気配が薄くなっていた。エルド、ミリア、ランベルトは館を後にし、ユリウスもスーリィが丘へ向かった後、すぐに姿を消していた。
残ったアリシアが、ガレス、マリナ、エリオットの前に立った。
「行ってこい」
ガレスは、普段通りの声だった。
「気をつけてな」
エリオットが、優しく言った。
マリナは、しばらくアリシアの顔を見つめていた。それから、何も言わずに、一度だけ強く抱きしめた。
「体に気をつけてね」
マリナの声は、温かかったが、少しだけ寂しさが含まれていた。
「行ってきます」
アリシアの表情は、少しだけ崩れていた。
ガレスとエリオットは、別れとしてではなく、いつものようにグランヴァルクへ送り出すときと同じように、普段通りに振る舞っていた。マリナとアリシアも、できる限りそうしようとしていた。それでも、この二人の声には、隠しきれない別れの色がわずかに混じっていた。
アリシアは、もう一度だけ三人の顔を見て、それから踵を返し、夜の道へ歩き出した。館の灯りが、夜風に揺れる金色の髪を照らしていた。
扉が静かに閉まる音が、夜の中に小さく響いた。マリナは、しばらくその扉を見つめたまま動かなかった。エリオットが、何も言わずにその肩へ手を置いた。ガレスだけが、いつもと変わらぬ落ち着いた手つきで、蝋燭の火を一つずつ消していった。それが、この夜の終わりを告げる、最後の仕事だった。




