第108話 森国を目指して
(リュート視点)
頷いたあと、自然と地図を広げ、逃亡ルートの話へ移った。蝋燭はもう半分ほどまで短くなっていたが、誰も気にしていなかった。ガレス様が執務室から持ってきた一枚の地図を、卓の上に広げた。蝋燭の灯りが、描かれた山と国境の線をぼんやりと照らした。羊皮紙の端は、長年の使用でゆるく波打っていた。
「逃げるって、どこに行くの?」
スーリィが、地図を覗き込みながら聞いた。
「この国に留まっては見つかる危険性が高いだろう」
父さんが言った。
「そうだな。ここからであれば、アーグラッシュ帝国に入るのが一番だろう。帝国は広い。そこからまた他国に流れることも可能だ」
ガレス様が意見を出した。
「異端執行官がこの村に到着し、アーデンの不在が判明し、逃亡と判断された場合、まず追手が出ると考えるべきでしょう。そうすると、一番に考えるのは、同じように帝国に逃れたということではないでしょうか?」
ユリウスが言った。
「そうだろうな」
ガレス様が同意した。
「であれば、帝国に逃れたように見せて、別の国に逃れるのはどうでしょうか?」
「具体的には?」
「グランツハイム王国と隣接している国は、正教国、帝国を除くと、ヴェリタス学術共和国、レマルカ商業連邦、バルドリン山岳王国、エルネシア森国です」
ユリウスが、地図の上を指でなぞった。
「商業連邦と山岳王国は、険しい山脈で国境が隔てられており、越境はほぼ不可能です」
一拍置いて、指を動かした。
「学術共和国は中立という話ですが、許可された者以外の入国は許されず、伝がなければ厳しいでしょう」
「では、残るは森国だな……」
ガレス様が言った。
「はい。森国は他国との交流がほとんどないと聞きますが、難民という形であれば、受け入れられる可能性はあるのではないかと思います」
「確かに入国さえできれば、良いかもしれないな。森国と正教国は対立関係にあったはずだ。簡単には追手も手出しできないだろう」
ガレス様が賛同した。
「帝国との国境では、衝突が絶えません。それに帝国は軍事国家です。リュートの精霊術が、どう扱われるか分かりません」
エリオット様が、意見を口にした。それから、地図の上の帝国の位置に目を落とした。
「森国も入国後にどう扱われるかはわかりませんが、少なくとも帝国よりは安全だと思います」
俺も意見を出した。
「では、一度グランヴァルクに向かい、ある程度南下した後、森国を目指すという道を辿るのがよいな。グランヴァルクはここからだと森国と反対の方向だ。グランヴァルクの方に行ったことが誰かに見られても裏をかける。この場合、むしろ、誰かに見られたほうが都合が良い」
ガレス様がまとめた。地図の上を、指がゆっくりと一本の線を描いていく。西へ向かい、大きく南へ折れ、最後に東へ向きを変える、長い道筋だった。
皆、頷いた。
それから、ガレス様が計画をまとめ始めた。
「では、逃亡ルートは先程話したとおり。逃亡は、リュート、エルド、ミリア、ランベルト、スーリィ。必要な荷物をまとめてくれ。出発は明日の深夜から早朝にかけてで頼む。すまないが、いつの間にかいなくなっていたという体裁にさせてもらうぞ。逃亡を支援したと思われれば、無関係な領の皆まで影響が出るかもしれない。それは避けたい」
皆が頷く中、アリシアが、俺の方を見ずに言った。
「私も行く」
「アリシアは残れよ」
アリシアに言った。
「ううん、リュートが異端と判定されるのって、きっと精霊術のせいだよね?異端審問官があのときの剣のことだけじゃなくて、精霊術のことを聞いてきたんでしょ?」
アリシアが確認してきた。
「そうだな」
答えると、アリシアは続けた。
「だったら、私も精霊術を使うんだから、いつ異端だと言われるようになるか、わからないわ。そして、その時は、きっと私は一人で逃げるしかない。それなら、今一緒に行ったほうがいいと思うの。それに、精霊術が使える人は多いほうがいいでしょ」
たしかにそうだとは思った。だが、必ず異端と判定されるわけではない。もう一度、アリシアに残れと言おうとした。その口を開く前に、マリナ様がガレス様の方へ一度だけ視線を向けた。ガレス様が、それに小さく頷きを返した。
「行きなさい」
それは、俺に言ったときのように、温かい言葉だった。
「そうだな。精霊術が使える者は多いことに越したことはない」
ガレス様も同意した。
「それなら僕も行こう」
ユリウスが言った。
「いや、ユリウスにこれ以上迷惑はかけられない」
そう言って断った。しかし、ユリウスは引かなかった。
「ここで手を引くのは簡単だ。最低限のことは果たしたとも思う。だが、ここで投げ出すのは僕の誇りに反する」
「ユリウス……」
「わかった。ありがとう」
それだけ伝えた。これ以上、何を言っても、この男の意志を変えられないことはわかっていた。
「では、よいな。今日はもう遅い、準備は明日するとして、今日はしっかり休んでくれ」
ガレス様がそう言って、この場を締めた。
蝋燭の火を、誰かがそっと手で覆って消した。部屋に、夜の静けさが戻ってきた。それぞれの足音が、扉の向こうへ散らばっていった。窓の外には、もう月が高く昇っていた。明日からの日々を、誰もまだ掴めずにいた。それでも、地図の上に描かれた一本の線だけが、これからの自分たちの行く先を、確かに示していた。
部屋を出る前、もう一度だけ、地図に視線を落とした。ブランデル領から、西へ、それから大きく南へ、最後に東へ――先ほど指でなぞられた道筋を、目で辿った。これから数週間、もしかしたら数ヶ月かけて歩む道のりなのだと思うと、その遠さが、むしろ心を静かにした。決まったことは、一つしかない。歩き出すことだけだった。




