第107話 逃げろ
(リュート視点)
ガレス様のところへ先に向かい、相談したいことがあること、場所を借りたいこと、家族も連れてくることを伝えた。ガレス様は多くを聞かず、館の食堂を貸してくれた。それから、父さんたちのところへ走り、皆を呼び集めた。
深夜近い時間に呼び出された館の食堂には、すでに灯りが点されていた。蝋燭の火が、壁に映る皆の影をゆらゆらと揺らしていた。ガレス様、マリナ様、エリオット様。父さん、母さん、兄さん、スーリィ。そして、アリシア。皆、寝間着のままの者もいれば、慌てて上着だけ羽織ってきた者もいた。窓の外では、夜の虫の声がいつもより小さく聞こえた。
扉の脇に立つユリウスを除けば、この場にいる誰も、これから告げられる現実をまだ知らない。胸の奥が、重く沈んでいくのを感じながら、俺は集めた全員の顔を見て、口を開いた。
「こんな時間に急に集めてしまって、すみません。急ぎ相談したいことができ、集まってもらいました」
「その相談したいことができた、というのは、そこの彼が関係しているのか?」
ガレス様が、ユリウスへ視線を向けながら聞いた。
「はい、彼はユリウス・フォン・バルネルト。精霊術学院での同級生です。彼が伝えてくれた情報が、その相談したいことです」
ユリウスは、会釈だけをして、それ以上は何も言わなかった。自己紹介の言葉すら口にしない。その振る舞いが、何よりも雄弁に、ただの世間話ではないことを伝えていた。
アリシアが、一瞬、どうしてユリウスがという顔をした。すぐに表に出さないようにしていたが、隠しきれていなかった。
「そうか。まずは話してくれ」
ガレス様が促した。俺は一度、息を整えた。喉の奥が、ひどく乾いていた。
「はい、三か月くらい前に主聖殿からホルム司教たちが村に来たことは覚えていますか?聞き取りが終わった後に、「学院での出来事を聞かれた」と伝えたと思います」
「ああ、覚えている」
ガレス様が答え、周りも頷いた。
「彼らは、異端審問官でした。その調査対象は俺。そして、異端判定され、正教国への出頭命令がくだされることはほぼ確実、ということです。これが、ユリウスが教えてくれた情報です」
ユリウス以外の全員が、息を呑んだ。蝋燭の灯りの下、エリオット様の肩が一瞬強張り、スーリィの目が大きく見開かれた。父さんだけは、驚きの中でも表情を崩さず、静かに身構えていた。
「ユリウス殿、息子のために情報を伝えに来てくれたこと、感謝します。もしご存知でしたら、教えていただきたいのですが、出頭命令がくだされた後、息子はどうなるのでしょうか?」
父さんが、ユリウスに向かって聞いた。
「……僕も詳しくはわかりません。ただ、こちらに来る前に少し調べたところ、何かしらの処罰がくだされるとありました」
ユリウスは、そこで一度、言葉を切った。
「それは、罰金から投獄、最悪は処刑もありえるようです」
「……処刑」
母さんが、小さく呟いた。声は震えていなかったが、その響きには、押し殺した何かがあった。アリシアは何も言わなかった。ただ、固く結ばれた唇の端が、わずかに震えていた。
「最悪ケースです。必ずというわけではないはずです。ただ、調べられた範囲ですが、この百年以上、異端審問が行われた記録はありませんでした。だから、どう判定されるのかはわからないです」
ユリウスが、補足するように言った。
しばらくの間、場が静まり返った。蝋燭の芯が、小さく爆ぜる音だけが響いた。誰の視線も、定まらないまま宙を彷徨っていた。
「リュートはどうするの?」
アリシアが、口を開いた。
もう一度、皆の顔を順に見た。誰の顔も、まっすぐには見返せなかった。
「出頭した方が……周りに迷惑をかけないんじゃないかと思っている」
「処刑があり得るんだぞ。そんな簡単な話じゃないだろ」
ユリウスが、すぐに反応した。鋭い声だった。
「それでも、俺一人のことで済むなら、その方がいいだろ」
「お前一人のことで済むと、本気で思っているのか?」
ユリウスが、俺の顔を見据えた。
「お前が出頭して、それで家族は、皆は、何も失わずに済むのか?お前はそれを、迷惑をかけないと呼ぶのか?」
言葉が、出なかった。
「迷惑をかけたくないのなら……生きて、ここを出ろ。その方が、よほど筋が通っている」
また、少しだけ沈黙した。耳の奥で、自分の心音だけが大きく聞こえた。誰も、何も言わなかった。だが、その沈黙は、さっきまでの戸惑いではなく、覚悟の沈黙だった。
「ユリウス殿、ありがとう」
父さんが、口を開いた。それから、大きく息を吐いた。何か続けようとしたが、その言葉を一度引っ込め、別の一言に変えるように、俺をまっすぐと見た。
「リュート」
ただ、それだけだった。だが、その目には、覚悟が籠っていた。何十年も従士長として、感情を言葉ではなく、間合いと視線で伝えてきた父にとって、伝えたいことのすべては、その目の中にあった。
ガレス様が、父さんの様子を見てから、俺を見た。
「逃げろ」
そう言った。静かに、強く。
「ですが……」
俺は食い下がろうとしたが、それをマリナ様が遮った。
「行きなさい」
その言葉には、いつものような温かさがあった。
「大丈夫だ」
エリオット様の声は優しく、その場に響いた。
「リュート」
唇を一度、強く引き結んだ。何か、言葉になりかけたものが、そこで止まった。
「行くわよ。ずっと、なんだか落ち着かない空気が漂っていたもの」
母さんは穏やかに。
「行くぞ」
兄さんが、俺の肩を叩きながら笑った。
「行こうよ」
スーリィは明るく。
それぞれが、それぞれの言葉で、同じことを告げていた。一つの部屋に灯った蝋燭の火が、その一人ひとりの顔を、静かに照らしていた。
俺は、全員の顔を見た。誰の顔にも、迷いの色はなかった。喉の奥が、熱くなった。何か言葉を返そうとしたが、何も出てこなかった。
「アーデン、アルトリース学院長からの伝言だ。「あなたは一人ではありませんよ」と」
ユリウスが言った。
アルトリース学院長も――。
天井を見上げ、目を閉じた。しばらく、そうしていた。胸の奥で、何かがゆっくりと動き出すのを感じた。
精霊が、そっと揺れた。その揺らぎは、どこか柔らかかった。蝋燭の火が映す部屋の隅々で、見えないはずの気配が、確かに俺の中へ流れ込んできた。怖がらせたくないと思っていた精霊たちまでが、今この場の何かを察して、寄り添うように揺れている気がした。
目を開け、顔をおろし、一人ひとりの顔を見た。
俺は、頷いた。




