第106話 夜の報せ
(ユリウス視点)
十月上旬の夜だった。馬を走らせる僕の周りには、もう人の気配がなかった。月は薄く、雲の合間からわずかに光を落としているだけで、街道の両側に広がる畑地は、闇に沈んで輪郭を失っていた。風が頬を切るように冷たかった。王都を出てからの道のりを思えば、この冷たさにも慣れたつもりだったが、夜になるとそれは、昼間とは違う、芯に触れるような冷たさだった。肌の表面だけでなく、その下の何かにまで染み込んでくるような冷たさだった。
月明かりの下、前方にようやく村の輪郭らしきものが見えてきた。ブランドルフ。あいつが暮らしている場所。話に聞いて思い描いていた景色と、目の前の景色がゆっくりと重なっていった。学院で過ごした四年間、何度か話に聞いてはいたが、こうして自分の足で、自分の意志で訪れるのは初めてのことだった。
遠くから見ると、村は思っていたよりも小さく、穏やかだった。畑の畝が月光を受けて淡く浮かび上がり、その向こうに、点々と灯る家々の影が並んでいた。こんな静かな場所で、あいつは育ったのか。王都の喧騒とはまるで違う、土と風の匂いだけが満ちた夜だった。これから伝えることが、この静けさを乱すのだという自覚が、馬の歩みを進めるたびに重くなっていった。
入口に近づくにつれ、人影が一つ、立っているのが見えた。門番だろう。
「門番がいるか……どうやって目立たずに入るか」
思わず声が漏れた。村に入った形跡が残ること自体が、後にどう響くかわからない。逃亡という選択をするなら、誰かがこの村を訪ねたという記憶や記録は、痕跡になり得る。今夜、ここに来たことを、できるだけ目立たない形で済ませたかった。
馬を止め、降りた。鞍の振動が、まだ脚にじんと残っていた。門番の顔を確かめようと近づき――そこで、足が止まった。
そこに立っていたのは、アーデンだった。
「ユリウス……どうしたんだ?どうしてここに?それもこんな時間に?」
驚いた声だった。村の見回りの当番だったのだろう。簡素な服に外套を羽織った姿で角灯を片手に立っていた。火影に照らされたその顔は、最後に見た卒業式の日とほとんど変わっていなかった。それが、今からこれを伝えるという事実を、いっそう重くした。
「伝えることがある。ここで会えたのは都合がいい」
「都合がいい?どういうことだ?」
「ここで話すようなことではない。人目につかないように村に入れてくれ。そこで話す」
アーデンは、僕の顔を見て何かを察したのか、それ以上は聞かなかった。
「わかった。付いてきてくれ」
角灯を掲げ、人気のない方へと歩き出した。僕はその後ろについていった。馬の蹄の音だけが、静かな夜道に響いていた。家々の窓には、もう灯りがほとんど落とされている。眠りに就いた村の上を、虫の鳴く声がかすかに流れていた。
しばらく歩き、村の外れ、小屋の裏手にあたる場所で足を止めた。
「ここなら人は来ない。まぁもともと夜に出歩く人がいるのは酒場の周辺と見回りくらいだからな」
「そうか」
僕は一つ息を吐いた。白い息が、夜の冷たさの中にすぐに溶けていった。馬の鼻先を撫で、しばらく落ち着かせた。そうしながら、頭の中で話す順番を整理した。まずは確認から。
「アーデン、少し前にこの村で教会の関係者から何か聞かれなかったか?」
「どうして、それを?」
驚いていた。やはり、事実か。シュタイナー司教の話を信じていなかったわけではない。それでも、自分の目と耳で確かめるまでは、どこかで足元が定まらなかった。
「ああ、大聖堂でシュタイナー司教様から聞いた」
「大聖堂?シュタイナー司教からか?」
「そうだ。ひとまず黙って聞け」
いちいち聞きたくなる気持ちはわかる。だが、話が進まない。アーデンは少し口元を引き締め、聞く姿勢になった。
「さっきの教会の関係者というのは、異端審問官だ。調査対象はリュート・アーデン、お前だ。そして、調査の結果、ほぼ確実に異端判定され、ドミニア正教国の主聖殿に出頭命令が出る、という話だ。これをシュタイナー司教様から直接聞いた」
一息ついて、続けた。
「正教国とこことの距離を考えると、どんなに早く判定されたとしても、まだ出頭命令が届くには時間があるはずだ。それまでにどうするかを考えろ」
言い終えると、アーデンは黙り込んだ。月の薄い光の下でも、その顔から血の気が引いていくのがわかった。角灯の灯りが揺れ、その顔を断続的に照らしていた。
アーデンの口から、しばらく言葉が出てこなかった。角灯を持つ手に、わずかに力が入ったのが見えた。それから、一度、長く息を吐いた。
「それをわざわざ伝えに来てくれたということか?」
最初に出てきたのが、その言葉だった。思わず息が漏れた。処罰のこと、家族のこと、これからのこと――聞くべきことは他にいくらでもあるはずだった。それでも、まず出てきたのは、僕が来たことへの確認だった。
「そういうことだ」
「そうか……ありがとう」
アーデンは、それだけ言うと、少し視線を落とした。
「ただ、うまく考えがまとまらない。家族と、皆と話してもいいか?」
「ああ。家族にも影響する話だ。皆で話すといいが、決めるのはお前だ」
そう伝えた。アーデンは小さく頷き、それから角灯を持つ手に少し力を込めたように見えた。
「わかった。案内する。付いてきてくれ」
歩き出したアーデンの背を見て、僕も馬の口輪を引き、後に続いた。
夜の冷たい風が、二人の間を通り過ぎていった。何を話すべきか、まだ整理できていないのは、アーデンだけではなかった。アーデンの家族に、何を、どこまで伝えればいいのか――僕自身も、その答えをまだ持っていなかった。
借りを返すために来た。そう自分に言い聞かせてきたはずなのに、村の輪郭が近づくほどに、その言葉だけでは押し込められない感情が、胸の底からせり上がってくる気がした。あの日、背を向けたまま短く礼を言って、それきり出てしまった自分のことを、思い出していた。あれから四年。角灯を手に先を歩くアーデンの背中を、僕はただ見つめていた。




