第104話 今が変わる機会
(ヘルミーネ視点)
バルネルト君と話した数日後、リセルの研究室を訪れていた。
アーデン君が卒業してからも、リセルは繰り返し実験を続けているようだった。たまにこうして顔を出すと、いつも手を動かしていた。
「そろそろいいかしら?リセル」
「今、いいところなのよ。もう少し待って」
実験から目を離さずに、それだけ答えてきた。
「さっきもそう言ったわよ。それに、少し前に一区切りついていたわよね。どうして続けたのかしら?」
「……はいはい、わかったわ」
そう言いながらも、なかなか手が止まらなかった。しばらくして、ようやくこちらへやってきた。
「それで、何かあったの?」
「アーデン君が、異端判定されて、正教国に出頭させられることになりそうよ」
一拍の間があった。
「なんですって?それは本当なの?」
リセルの表情が、止まった。いつもの研究中の表情とは違っていた。
それきり、リセルは何も言わなかった。視線がわずかに落ち、それからこちらへ戻ってきた。
少し意外だった。アーデン君が卒業してからは、もうリセルの関心は薄れているものと思っていたから。ただ、今のリセルの顔は、そうではなかった。
「ええ、本当よ。だからね、リセル、あなたにも協力してほしいの」
リセルはすぐには答えなかった。視線が落ち、答えを探すようにわずかに彷徨った。
「今の私では、無理ね」
そこで一度、口を閉じた。少しの間、何も言わなかった。
「でも……この研究が完成すれば」
唇をわずかに噛んだ。
「どういうこと?」
「私たちが森国を出ると精霊術が使えない。あなたもそれは知っているでしょ?」
「ええ、知っているわ。だからあなたがここにいるのだとも」
リセルはわずかに目を細めた。
「その研究が、もう少しで形になりそうなの」
驚いた。いつの間にそこまで進めていたのか。教えてくれてもよかったのに——その気持ちを、今は飲み込んだ。
「まだ制限はあるでしょうけど、森国以外でも使えるようになれば、力になれることも増えると思うわ」
少し考えた。バルネルト君はすでにブランデル領へ向かっている。まだ時間はある。研究を完成させることを優先した方がいいかもしれない。
「わかったわ、あなたは早く研究を完成させてちょうだい。多少の無理は私がどうにかするわ」
リセルは頷くと、すぐに実験へ戻っていった。その背中をしばらく眺めてから、研究室を後にした。
まだリセルの研究がどこまで進むのか、確信は持てなかった。リセル自身のことも、今ここで持ち出す段階ではない——そう決めて、それ以上は手放した。
今は、研究の完成だけを考えていればいい。そう考えながら廊下を歩いた。
——————
翌日、王国治安研究会の定例会の場へと向かった。
部屋に入ると、アレクシス殿下とフリーデンタール君がすでに座っていた。
「お待たせしてしまいましたか?」
「いえ、時間通りですので、お気になさらず」とアレクシス殿下が言った。
「それでは始めましょう。共有事項がある方はいらっしゃいますか?」フリーデンタール君が進行を始めた。
「私から」と言って、少し間を置いた。
「バルネルト君が学院に私を訪ねてきました。シュタイナー司教から直接話を聞いたそうです。異端判定が確実視されている、出頭命令が出る前に動く必要がある——と伝えられたそうです」
アレクシス殿下は静かに聞いていた。頷いたが、しばらく口を開かなかった。何かを確かめるような間があった。
「……シュタイナー司教様に接触しましょう」
「組織に参加していただく、ということですか?」
「はい。この先、教会の内側に組織の人間が必要です」
フリーデンタール君がアレクシス殿下を見た。
「大丈夫でしょうか?」
その視線は、危惧というより確認だった——可否を素早く判断するための、この青年の考え方の癖だと感じた。
「バルネルトに自ら話すくらいだ。今の教会に対して、何か思いがあるはずだ。それを引き出せれば、参加してもらえる可能性は高い」
言葉を選びながら続けた。
「バルネルト君の話では、シュタイナー司教はこう言ったそうです——今、私にできることはここまでです——と。今、できるのは——という言い方です。教会での立場がその枷になっているのであれば、私たちの組織がその力になれるはずです」
フリーデンタール君が頷いた。
「わかりました」
木の葉はまだ青かった。それでも、季節が変わり始めている気配があった。
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ルーフェン視点)
九月に入ったばかりの朝、グランツィリア大聖堂にアレクシス殿下から面会の申し入れが届いた。
王族から司教への接触は珍しくない。しかし今回は、人目につかない場所での面会を求めていた——それだけで、十分だった。
セレナを同行させることにした。二人でなければ話せない内容の可能性がある。なにより、この場にいるべき者を問われれば、迷わずセレナだった。
指定された王都内の貸しサロンは、表通りから少し入ったところにあった。扉を開けると、王都の通りの音が遠くなった。板張りの床と低い天井を持つ小さな部屋で、窓は一つ、厚いカーテンが引かれており、光は蝋燭だけだった。アレクシス殿下と、側近のフリーデンタール殿がすでに着いていた。
「シュタイナー司教様、シュトレイン神官様。お時間をいただきありがとうございます」
アレクシス殿下が静かに口を開いた。急かすような様子はなく、しかしその声に含まれた確かさが、今日の用件の重さを伝えていた。
「いえ。殿下直々のお申し入れを断る理由はございません。本日はどのようなご用件でしょうか?」
アレクシス殿下は少し間を置いた。
「単刀直入にお話しします。私はある組織を構築しています。王国治安研究会という名前で、表向きは穏当なものですが、その実態は教会権力の過度な介入を監視し、王国の秩序と法を守ることを目的としています」
答えなかった。続きを待った。
「現在のメンバーは私とルーカス、そしてアルトリース学院長です」
その名前を聞いた瞬間、これまで別々に見えていた出来事が、一本の線でつながった。ユリウス殿がアルトリース学院長のもとを訪ねたことと、この面会の申し入れが、同じ流れの中にあることを理解した。
「この組織に、加わっていただけますか?教会の内側からの情報と、改革への意志を持つ方が必要です」
少し間を置いた。
背後で、セレナが静かに息を整える気配があった。
教会改革を志して、長い時間が経った。セレナと二人、ひっそりと方法を探し続けてきた。しかし、それはあまりに遅く、あまりに小さかった。
教会の外の力と手を組む。それは、これまで自分が拠ってきた行動の原理から外れることだった。それでも、迷いはなかった。
今、私にできることはここまでだ——あのとき、ユリウス殿にそう告げた。しかし「今」が変わる機会が、目の前にある。それを断ることはできなかった。
「……わかりました」
後ろでセレナが静かに礼をした気配があった。
「ありがとうございます」とアレクシス殿下が言った。
少し間があってから、口を開いた。
「一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
「何でしょう」
「リュート・アーデンを、守れますか?」
アレクシス殿下は少し間を置いた。
「全力を尽くします」
——それだけが、返ってきた言葉だった。しかしその重さは、十分に届いた。頷いた。
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帰路、セレナと並んで歩いた。秋の気配を帯びた風が、石畳の上を静かに吹き過ぎた。
「よかったのでしょうか?」
セレナが、歩きながら言った。
「わかりません。ただ、何もしないよりはよいでしょう」
セレナは頷いた。それ以上は何も言わなかった。
二人分の足音が、石畳の上に静かに刻まれていった。どこへ向かうのかはまだわからなかった。ただ、一人ではなかった。




