第103話 伝わること、刻まれる名前
(ユリウス視点)
同日の午後、グランツィリア精霊術学院の廊下を歩いていた。
在学中と変わらない石畳の感触が足裏に伝わるたびに、あのころの断片が浮かんだ——精霊暴走から数日後、あいつの部屋の扉の前で二度息を吐いたときのことが。言葉は出た。礼は伝えた。ただ、顔が向けられなかった。背を向けたまま短く礼を言い、そのまま廊下へ出た。その足音が、まだどこかに残っている気がした。
学院長室の扉を叩くと、中から応じる声がし、すぐに迎え入れられた。
「バルネルト君。お久しぶりですね。今日は急にどうされましたか?」
「突然の訪問にもかかわらず、ご対応いただきありがとうございます」
感謝を述べてから、一つ息を吐いた。
「アルトリース学院長は、リュート・アーデンのことを覚えていらっしゃいますか?」
「ええ、もちろん覚えていますよ」
アルトリース学院長の顔が、ほんのわずかだが変わった。
「そのアーデンのことで、直接お話したいことがあり、今日ここに来ました」
シュタイナー司教に呼び出されたこと、アーデンへの異端審問調査が行われていたこと、異端判定が確実視されていること、出頭命令が出される前に動く必要があること——それを順を追って、全て伝えた。
アルトリース学院長はしばらく黙っていた。執務机の上で指を組み、視線を少し落として何かを考えていた。
「……シュタイナー司教が、直接あなたに伝えた、ということですね?」
「はい」
「わかりました。私にも、できることはあるはずです」
その短い言葉の奥に、すでに思案の気配があった。それ以上は問わなかった。学院長がそう言うのなら、それで十分だった。
「バルネルト君、あなたはこれからどうするつもりですか?」
「一度家に戻り、準備を整え次第、ブランデル領まで行ってきます」
「バルネルト君、それは、まさか……」
アルトリース学院長の声が、「まさか」の一語で止まった。続く言葉はなかった。
「わかりません。ただ、今、アーデンは知らない。自分が置かれていることを理解した上で、どう行動するかは、あいつ次第です」
「そう、ですね……」
「それでは急ぎ準備をしますので、これで失礼します」
踵を返した。そのとき、背後から声がかかった。
「バルネルト君」
振り返ると、アルトリース学院長がこちらを見ていた。
「アーデン君に、伝えていただけますか。——あなたは一人ではありませんよ、と」
思っていた言葉ではなかった。感情の滲まない言い方でも、それはただの励ましではなかった。
返事をする前に、一度だけ息を吸った。
「必ず伝えます」
アルトリース学院長は小さく頷いた。それきり、何も言わなかった。学院長室の窓から午後の光が差し込んでいた。その光を背に受けながら、廊下へ出た。
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(ドミニア正教国 聖都ドミナリス)
八月の末、ドミナリウム主聖殿、八聖典殿の議事の間には重い静寂が満ちていた。石造りの壁に高窓から差す光が細く落ち、八角の卓の中央に置かれた報告書だけが白く目立っていた。
マティアス・フォン・ドンナースベルク枢機卿が報告書を手に取り、ゆっくりと読んだ。
「精霊契約によらない精霊との関与。命令の形が存在しない。精霊が自発的に動く」
一言ずつ、確かめるように口にした。読み終えても、しばらく卓へ戻さなかった。指先が、紙の端にわずかに触れたまま、止まっていた。
「……これは、由々しき事態だぞ。我々の秩序の外にある。それは明白だ」
レオポルト・フォン・アルテンブルク枢機卿が口を開いた。
マティアスは静かに報告書を卓へ戻した。
「私も同意だ」
レオポルトが卓を見渡すように問うた。
「異議は?」
誰も声を上げなかった。数名は報告書に目を落としたまま動かなかった。
一人は組んだ手を静かに卓の上に置いた。それだけだった。
「——全会一致。以上をもって、異端と認定する」
記録官の羽ペンが動いた。議事録の上で、名前が書き込まれた。
——リュート・アーデン。
インクが紙に広がっていった。乾くのを待つ間、議事の間はまた静かになった。
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決議の二日後、夜明けから間もない時刻に騎馬が整列していた。先頭は、出頭命令を携えた異端執行官、シグルド・ハルヴォルセン。その後ろに、補佐官二名、記録官一名、護衛十名、医官一名。シグルドを含め、計十五名の一団が、静かに主聖殿を発った。




