第102話 灯を渡す夜
(ルーフェン視点)
八月に入ったばかりのその夜、グランツィリア大聖堂に連なる尖塔の向こうで、空は、まだ暗くなりきっていなかった。夏の名残が空の端を薄橙に染め、その色はじきに消えようとしていた。
自室の文机に肘をついたまま、その空を眺めていた。羽ペンは手元にあったが、手を伸ばす気にはなれなかった。
扉が、いつものリズムで叩かれた。
「どうぞ」
静かに答えると、蝶番がほとんど音を立てずに扉が開いた。旅の塵を払ったばかりの装いで、セレナ・シュトレインが部屋に入ってきた。その灰青色の瞳は、深く落ち着いて見えた。
「先ほど、ブランデル領より帰還しました」
「よく戻りました。そちらに座ってください」
セレナが椅子に腰を下ろすのを待ち、対面の椅子に座った。小卓の上で燭台の炎が揺れていた。
「どうでしたか?」
報告は簡潔だった。ブランデル領、ブランドルフ村の教会でリュート・アーデンへの聴取が行われたこと、そしてエイリフ司教が整理した報告書の内容を、セレナは一言も取りこぼさぬよう、正確に伝えた。
——精霊契約によらない関与が確認された。本人の証言でも「話している」「言葉にできない」との回答。命令の形でもない。
聞きながら、自分の呼吸が落ち着いていることに気づいた。予測していた言葉だった。心は揺れなかった。ただ、何かが重く、胸の奥へ静かに沈んでいった。
「異端審問調査に関しては以上です。ただ、お伝えすべきことはまだあります」
セレナが続けた。
リュート・アーデンが村の人間に自然に受け入れられていたこと、エルドが息子を教会の扉の向こうへ見送る目に押さえきれない心配が滲んでいたこと、ガレス男爵が毅然とした対応の中にもリュート・アーデンへ父親めいた温かさを向けていたこと——そして、聴取から戻ったリュート・アーデンを誰も大げさに騒がず、ただ普通に迎えていたこと——それらを、セレナは最後まで感情を交えずに伝えた。
セレナが何を伝えようとしているのかは、言葉の端々から十分に伝わった。精霊術の異質さではなく、その在り方を、あの場で見てきた——そのことが。
「報告は以上です」
「……そうですか」
瞼を閉じた。
近いうちに、正教国への出頭命令が下る。もしそれがそのまま現実になってしまえば——息を、もう一度静かに吐いた。
「わかりました。ありがとうございます」
セレナは静かに礼をし、退室した。
——————
一人になった室内で、しばらく動かなかった。
八聖典殿に報告書が届くのは早馬でも一ヶ月はかかる。そこから判定が行われ、異端執行官がブランデル領に到着するまでには、後二ヶ月はかかると考えられた。それまでに、できることはしなければならない。
ただ、今はまだ、何をすべきかが見えていなかった。動く必要があるという感覚だけが、胸の奥で静かに脈打っていた。
セレナが座っていた椅子へ、しばらく視線を落とした。
以前、この部屋を訪れたときのリュート・アーデンの姿を思い返した。その姿が、セレナの語ったブランデル領での光景と静かに重なった。村の人々が彼を迎える様子が、自然と浮かび上がった。
決断するときが来たのかもしれない。
セレナと二人、長い時間をかけて、それでも声に出せない問いを抱えてきた。今の教会が正しいのか、という問いを。ひっそりと、静かに、ずっと——。今夜、その覚悟が、はっきりと形を持った。
窓の外の橙色はいつのまにか消えており、夜が静かに落ちていた。暗くなった室内で、燭台の炎だけが静かに燃えていた。
——————
八月の中頃になっていた。自室の窓から差す光は、あの夜の橙色とは別の白さをしていた——昼間の白い光が、石造りの壁を淡く照らしていた。
今回の異端審問の調査を受け、学院や大聖堂として再発防止を検討する、という名目は、院内にはすでに通してあった。セレナをバルネルト領まで遣わせ、同行して戻るよう指示していた。
精霊が暴走した日、命を救われたという話は、その後の報告で知った。あの大会で、劣勢の中でも最後まで退かなかった姿は、この目で見た。そして今回の調査資料には、共に並んで迷い魔と戦ったという記述があった。
助けられた借りだけではない。いざという時、ユリウス殿は退かず、迷わなかった。
扉のノック音が届いた。セレナの合図だった。
「どうぞ」
扉が開いた。セレナが先に入り、その後ろにユリウス殿が立っていた。突然の呼び出しに驚いた様子だったが、表情は崩していなかった。ただ、部屋に入る前にほんの一瞬、視線が室内を確かめた。
手で椅子を示してユリウス殿を促した。自分も対面に座った。セレナは退室させず、背後に控えさせた。
「呼び出しに応じていただき、ありがとうございます。突然のお呼び立て、申し訳ありません」
「いえ、それは構いませんが……シュタイナー司教様が僕を呼び出されるとは、思ってもいませんでした。どのようなご用件でしょうか?」
「リュート・アーデンのことで、お話しさせていただきたいことがあります」
ユリウス殿の顔が、わずかに固くなった。
「最初に教えてください。ユリウス殿、あなたはリュート・アーデンをどう思っていますか?」
ユリウス殿は少し黙った。その視線が、時折セレナの方へと動いた。セレナは、その視線を受けても微動だにしなかった。それが、ユリウス殿の迷いを静かに解いたように見えた。
「誰に報告することもありません。それでも、大切なことです。あなたの正直な気持ちを教えてください」
少し間を置いてから、続けた。
「また、彼女は私の協力者であり、志を共にする者です。安心して話していただいて構いません」
後ろでセレナが静かに礼をした気配があった。そうだという意味の礼だとわかった。
ユリウス殿の視線が、もう一度セレナへ動いた。
背後に立つ気配は、変わらず静かだった。
しばらく、沈黙があった。
「……借りがあります」ユリウス殿が目を見て、ゆっくりと言った。
「まだ返しきれていない借りが」
その答えを受け取った瞬間、胸の奥で、ひとつの覚悟が静かに形を成した。
「ありがとうございます。十分です」
間を置いてから、本題に入った。
「先々月から先月にかけて、異端審問の調査が行われました。その対象は、リュート・アーデンです」
ユリウス殿の眉がわずかに動いたが、静かに聞いていた。
「調査結果は既にドミニア正教国の主聖殿へ送られており、判定が確実視されます」
「……どのような判定ですか?」
「異端です」
その言葉が自分の口から出た瞬間、その重さを初めて身体で感じた。何度も頭の中で転がしてきた言葉でも、声に出すことで、それははっきりと現実の輪郭を持った。
ユリウス殿は目を閉じた。一度、深く息を吐いて、ゆっくりと瞼を開けた。
「アーデンは、そのことを知っているのでしょうか?」
「知りません。審問官は名乗らずに調査を行っています。疑問に思うことはあっても、異端と判定されるとは考えていないでしょう」
「ですから、正教国への出頭命令が彼の下に届く前に……動かれた方が良いです」
「シュタイナー司教様はどうして、このことを僕に教えたのですか?」
少し間を置いた。
「今、私にできることはここまでだからです。ただ、あなたなら、と……」
ユリウス殿の目が、まっすぐこちらを見ていた。視線を逸らすわけにはいかなかった——それが声以外で伝える方法だと、わかっていたから。
ユリウス殿は静かに頷いた。
「……わかりました」
そう言って、椅子を引き、立ち上がった。一礼して、部屋を出ていった。扉の閉まる音がした。廊下を遠ざかっていく足音が、しばらく続いた。
「……ありがとうございます」
自分の声が漏れたことに、わずかに驚いた。それは誰にも届かず、室内の空気に静かに溶けていった。
燭台の炎が、わずかに揺れて、また静まった。




