第101話 言葉にできないこと
(リュート視点)
村の教会に向かう間に、ホルム司教が口を開いた。
「紹介しておきましょう。こちらは神官のレイフ・ソレンセン、こちらは同じく神官のハンコ・リンドです」
紹介されたのは、後ろを歩く二人だった。記録帳と羽ペンを抱えているのがリンド神官。もう一人、少し離れて歩いているのがソレンセン神官だった。二人とも、こちらを一瞥した後は、特に何も言わなかった。
村の教会は、領内で一番古い建物のひとつだった。石造りの壁は、年月のせいで少しくすんでいた。中に入ると、外の蝉の声が遠ざかり、ひんやりとした空気が肌に触れた。
案内された部屋は小さかった。窓が一つ、テーブルが一つ、椅子が四つ。それだけの部屋だった。
ホルム司教が、対面の椅子に座った。やや離れた場所に、リンド神官が羽ペンと記録用紙を用意して座った。ソレンセン神官は、ホルム司教の隣ではなく、少し距離を置いた位置に腰を下ろした。
「どうぞ、座ってください」
示された椅子に座った。
部屋の中は静かだった。窓の外から、村の音がかすかに聞こえてきた。井戸端で誰かが話す声、荷車の軋む音。普段なら気にもしない音が、今はやけにはっきりと耳に届いた。
「リュート・アーデン殿。いくつか確認します。正確に答えていただければ、それで十分です」
「はい」
「まず、卒業試験について伺います。試験中、迷い魔との交戦において、剣に精霊術的な現象が生じたと報告されています。その際、精霊契約に基づく術式を使用しましたか?」
「……していません」
「では、何によって精霊術は剣に纏ったのですか?」
少し迷ったが、正直に答えるしかなかった。
「俺が纏わせたわけではないと思っています。精霊が動いた、という感触でした」
「精霊が動いた、とはどういう意味ですか?」
「俺が働きかけたのではなく、精霊が向かってきた、という感覚でした」
リンド神官の羽ペンが動く音がした。ホルム司教の表情は、変わらなかった。
少し間を置いて、ホルム司教が続けた。
「精霊術の発動に際し、あなたは精霊へどのように働きかけていますか?」
少し考えてから答えた。
「命令、という形ではないと思います」
「では、あなたは何を行っているのですか?」
うまい言い方は、見つからなかった。それでも、感じていることを、そのまま口にするしかなかった。
「……話している、という方が近いかもしれません」
「話しているとは、どういうことですか?」
ホルム司教が、その言葉をそのまま繰り返した。
「はい」
リンド神官の羽ペンが止まった。一瞬だけ。すぐに、また動き出した。
その短い静止が、やけに長く感じられた。
部屋の空気は、変わらず静かだった。窓の外の音も、変わらず聞こえていた。それでも、部屋の中だけが、何かべつの場所のように感じられた。
ふと、足元に意識を向けた。教会の建物に入ってから、精霊の気配が普段より遠かった。完全に消えているわけではない。ただ、声が、薄い壁の向こうから聞こえてくるようだった。
ソレンセン神官の視線が、こちらの手元から顔へ、ゆっくりと動いた気がした。
ホルム司教が、記録用紙に短く目を落とした。リンド神官のペンが、また静かに動き出す気配があった。
「次に、学院在学中の精霊暴走事件について伺います。あなたが暴走した精霊術から生徒を守った、という記録があります。その際の手順を説明してください」
「手順は……ありませんでした」
「手順がない、とはどういうことですか?」
「精霊術で防壁を作りました。それだけです」
「精霊契約に基づく術式は使いましたか?」
「……使っていません」
「では、何によって精霊は応答したのですか?」
答えようとした。
口を開いたが、言葉が出てこなかった。
あの時、何をしたのか。何が起きたのか。覚えてはいた。だが、それを言葉にしようとすると、形になる前に崩れていった。理由も、手順も、説明できるようなものではなかった。ただ、そうしないといけないと思ったから、そうした。それだけだった。
「……うまく言葉にできません」
それしか言えなかった。
部屋の中が、静かになった。リンド神官の羽ペンだけが、動いていた。
ソレンセン神官は、何も言わなかった。ただ、その視線が、俺からホルム司教へと、一度だけ静かに移った。
「了解しました」
ホルム司教が言った。それだけだった。表情にも、声にも、変化はなかった。
「協力に感謝します」
ホルム司教が立ち上がり、一礼した。
終わり、なのか。もっと何か問われると思っていた。
ホルム司教は何も言わずに部屋を出ていった。リンド神官がそれに続き、ソレンセン神官も静かに後を追った。
扉が閉まる音がした。
一人になった。
椅子に座ったまま、しばらくそこにいた。
普段なら聞かれないようなことだった。それでも、どこか妙な感じが残った。聞かれたことには、正直に答えた。それだけは確かだった。
ただ、あの「うまく言葉にできません」という言葉だけが、少し引っかかっていた。
自分にとっては、それが一番正直な答えだった。言葉にできないことを、できないと言った。それ以上の何かではないはずだった。
それでも、あの言葉が、あの人たちにどう聞こえたのかは、わからなかった。
立ち上がり、部屋を出た。
教会の扉を押して外に出ると、午後の日差しが強く、目を細めた。
父さんと兄さんが、石段の下に立っていた。二人とも、こちらが扉を開けた瞬間に顔を上げた。待っていた、ということが、その動きだけでわかった。
父さんは、何も言わなかった。ただ、少しだけ、肩の力が抜けるのがわかった。
「終わったか?」
兄さんが聞いた。
「終わった」
それだけを言った。父さんは頷いた。それきりだった。
三人で歩き出した。村はいつもと変わらない様子だった。井戸端で水を汲む人、畑から戻る荷車、子どもたちの声。
精霊が戻ってきていた。普段のざわめきより、わずかに沈んでいた。何かが動き出す前の、静かな予兆のような感触だけが、足の裏に残っていた。
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(ブランドルフ村 宿屋)
リュートへの聴取が終わった翌日。ブランデル領の宿屋の一室に、まだ朝の光が硬さを残していた。
部屋の中央に置かれた机に向かい、エイリフが羽ペンを走らせていた。前日までの調査結果を、報告書としてまとめていた。ハンコはその傍らで、記録を広げて補佐していた。レイフは、整理した資料を、必要なものから順に二人へ渡していった。
部屋に飲み物を運んできたのは、案内役の女だった。三人の前に、静かに椀を置いていった。
「ありがとうございます」
レイフが、短くそれだけ言った。エイリフとハンコは、顔を上げなかった。
女は、何も言わず、部屋の端に下がった。出ていくわけでもなく、ただそこに立っていた。誰も、出るように言わなかった。壁を背に正面を向いた姿勢のまま、動かなかった。
エイリフもハンコも、女の存在を気にしていなかった。レイフだけが、一度、女の方に目をやった。しかし、それだけだった。
エイリフが、羽ペンを止め、口を開いた。
「卒業試験。精霊暴走事件。いずれも精霊契約によらない関与が確認された。本人の証言でも「話している」「言葉にできない」との回答。命令の形でもない」
「学院側の証言とも一致しています」
レイフが、補足するように言った。
エイリフは、一度頷いた。
「これで十分です。報告書をまとめてください」
ハンコが、羽ペンを走らせる音だけが、しばらく部屋に響いた。
報告書が完成した。窓から差し込む光は、いつの間にか、朝の硬さを失っていた。エイリフが、書き上げた報告書を丁寧に折り、封をした。
「早馬の手配を」
「すでに手配しております」
レイフが、すぐに答えた。
三人は、宿屋を出て、街道の脇に立った。一頭の馬が、騎手を伴って待機していた。封をされた報告書が、騎手の鞄に収められた。
馬が走り出した。その後ろ姿が、街道の先で次第に小さくなっていった。
三人は、無言でそれを見送っていた。馬の蹄の音が遠ざかり、やがて、村の喧騒の中に溶けて消えた。
「出発する」
エイリフが言った。それから、部屋の端に立っていた女に視線を向けた。
「案内、ご苦労」
思い出したように、そう告げた。
「異端審問官殿、もったいないお言葉にございます」
女が、深く一礼した。
「道中、ご無事であられますよう」
支度を終えたエイリフたちは、馬車に乗り込み、ブランデル領を発ち、ドミナリウム正教国へと向かった。
女は、その馬車が街道の先に消えるまで、見送っていた。
馬車が見えなくなった後、女は、別の馬車に乗り込んだ。向かう先は、大聖堂のある王都グランツィリア。エイリフたちとは、しばらく同じ方向に進む。
馬車が動き出し、窓の外に、ブランデル領の景色が流れていった。麦畑、森の縁、街道沿いの小さな水路。
その景色を眺めていた女の灰青色の瞳に、わずかな光が帯びた。
馬車は、王都への道を進んでいった。




