第100話 銀の聖印
(リュート視点)
六月の終わり、昼下がりのことだった。
部屋で剣の手入れをしていると、扉が叩かれた。家令の使いが、一通の手紙を差し出してきた。差出人はアルトリース学院長だった。
手を止め、受け取った。なんだろう、と思いながら、油布と砥石を脇に置き、机に向かって封を切った。
「先日、君の卒業試験について教会から問い合わせがありました。特に問題があったわけではありませんが、少し珍しいことではあります。君は君のすべきことを続けなさい。何かあればこちらから連絡します」
それだけだった。
教会、か。しかも今さら卒業試験のことで、というのがよくわからなかった。卒業からもう何ヶ月も経っていた。それに、こんな短い知らせを、わざわざ学院長が自ら書いて送ってくるというのも、どこか妙だった。
何かをしろとも、何かに備えろとも書かれていない。ただ、状況を伝えるだけの内容。
気にはなった。だが、この一通の手紙で、こちらから動くことも、動かなければならない理由もなさそうだった。
「とりあえずは、置いておくか」
そう呟いて、手紙を机の隅に置いた。割れた封蝋が、少しだけ目に残った。
油布を手に取り、剣の手入れに戻った。
窓の外には、初夏の穏やかな景色が広がっていた。畑の緑が日を受けて、目に刺さるように明るかった。風が木々の葉を揺らし、遠くで誰かの呼ぶ声がした。精霊の感触も、いつもと変わらない。穏やかなざわめきが、家の周りに満ちていた。
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七月も半ばに入った、ある朝のことだった。
朝の稽古を終えて家に戻ろうとしていたところに、領主の館から使いの者が駆けてきた。村の見張りから報告が入った、見知らぬ一団が村に近づいているという。馬車が三台ほどの規模らしい、と使いは息を切らしながら告げた。
父さんと顔を見合わせた。最近、この辺りに来る商人や旅人の話は聞いていなかった。荷馬車にしては数が多い。
館に着くと、ガレス様がすでに表に出てきていた。普段の柔らかな雰囲気ではなく、領主としての顔をしていた。
「何者か確認しないわけにはいかないな。村の入り口に向かう。対応はエルド、頼むぞ」
「承知しました」
父さんが応じた。それから俺の方を見た。
「リュート、お前も来い。こういうときの対処も知っておく必要がある」
「はい」
短く答えて、二人について歩き出した。途中、兄さんも合流した。
村の入り口までは少し距離があった。歩きながら、夏の強い日差しが石畳に照り返していた。道端の草が乾いた匂いを立て、蝉の声が遠くから降ってくる。畑では、村の皆がいつも通りに作業をしていた。誰も、これから何が来るのかをまだ知らなかった。
入り口に着いて、しばらく待った。父さんを中心に、兄さんと俺が並んだ。ガレス様は少し後ろに控えていた。
待つ間、誰も多くは話さなかった。兄さんが何度か街道の先に目をやり、それから父さんの方を見た。父さんは表情を変えず、ただ前を見ていた。
いつもの音の中に、何かが混じっているような気がした。気のせいかもしれない。それでも、足元の精霊の気配が、わずかに張っているように感じた。
しばらくすると、街道の向こうに馬車の列が見えてきた。三台。
馬車が近づいてくるのに気づいたのか、畑で作業していた領民たちの手が、ふと止まった。視線が、ゆっくりと道の方へ向いた。誰もが、何かが起きていると気づき始めていた。
先頭の馬車の幌は黒に近い色をしていて、所属を示すような紋章や旗は、外からは見えなかった。
馬車が村の入り口の手前で止まり、中央の馬車から三人が降りてきた。残りの二台は、少し離れた場所で止まったまま、誰も降りてこなかった。その分だけ、静けさが妙に重く感じられた。
代表と思われる人物は、黒い法衣に銀の縫い取りの入った装束を纏い、首から、正八角形の中に天秤を象った、銀の聖印を下げていた。落ち着いた所作で、こちらを一瞥した。後ろに控える二人も同じ色の法衣だったが、縁の色が違った。一人は記録帳らしきものと羽ペンを抱えていた。
教会関係者かと思った。
その瞬間、先日の手紙のことが頭をよぎった。鼓動が一度、跳ねた。
横目で見ると、父さんと兄さんも同じことを思ったのか、わずかに表情が硬くなっていた。
「そなたらは教会の者か?所属と目的を述べよ」
父さんが、声に硬さを持たせて告げた。
「私はドミナリウム主聖殿所属の司教、エイリフ・ホルムです。ある調査のために参りました」
落ち着いた声だった。淀みなく、丁寧に。
「司教様ですか。念のため、身分証を確認させていただきたい」
父さんの態度が、わずかに柔らかくなった。
「ええ、どうぞ。こちらです」
ホルム司教は、最初から用意していたかのように、すぐに身分証を取り出して見せた。父さんがそれを確かめ、表情を改めた。
「確認いたしました、ホルム司教様。失礼をお詫びします」
父さんが頭を下げた。その様子を見て、安全だと判断したのか、ガレス様が前に出て挨拶をした。
「私はこの辺りの領地を任せられております、男爵のガレス・ブランデルと申します。ある調査が目的とのことですが、具体的にお聞きしてもよろしいでしょうか?何か助力できることがあるかもしれません」
「具体的な目的はお教えできかねますが……」
ホルム司教は一度、ガレス様の方に視線を向けてから、続けた。
「リュート・アーデンという人物をご存じですか?彼に確認したい事案があります」
その名前が、目の前で発せられた。
俺に確認したいことがある?
――「教会から問い合わせがありました」
手紙の文字が、頭の中をよぎった。アルトリース学院長が言いたかったのは、これのことか。もう少しわかりやすく書いてくれていてもよかったのに、と思った。
そもそも、なぜ学院長が自ら手紙を書いてきたのかもわからなかった。状況を伝えるだけなら、事務的な通知で十分だったはずだ。それをわざわざ本人が書いて寄越すということは、そうする理由がどこかにあったのだろう。
ただ、手紙を書いた時点では、何が起こるのか、学院長自身にもまだ確信がなかったのかもしれない。だからこそ、ああいう書き方になったのだろう。
気づくと、皆の視線が俺に集まっていた。父さん、兄さん、ガレス様。その視線につられたように、ホルム司教もこちらを見ていた。
逃げる理由も、隠れる理由もなかった。
「俺が、そのリュート・アーデンです」
ホルム司教の目を見て、それだけを言った。
「そうですか。では、これよりお時間をいただけますか?」
父さんとガレス様を見た。二人とも、わずかに頷いた。
「はい、問題ありません」
「感謝します。村の教会で話を伺いましょう」
「失礼ながらホルム司教様。それは私の息子です。私も同席しても構わないでしょうか?」
父さんが、いつもより少し速い声で確認した。
「お父上でしたか。しかし、彼はすでに成人です。親の保護は不要と判断します」
ホルム司教の口調は変わらなかった。柔らかく、それでいて、断ることに迷いがない。
「失礼しました」
父さんは一礼すると、こちらに向き直った。
「リュート、しっかりとな」
心配する目だった。
「参りましょう」
ホルム司教が歩き出した。記録帳を持った神官と、もう一人の神官がそれに続いた。
俺もその後ろを歩いた。
村の中を進むにつれて、道の両脇で作業していた人たちの手が、しずかに止まっていくのがわかった。声をかけてくるわけでも、何かをするわけでもない。ただ、視線だけがこちらを追ってくるのを感じた。
途中、振り返ると、父さんも兄さんもガレス様も、こちらをじっと見ていた。皆がどこか心配そうな目をしていた。
足元の精霊は、息を潜めるように静まっていた。




