第99話 備えの始まり
(ヘルミーネ視点)
エイリフ司教たちが学院を去って数日後、アレクシス殿下に面会を求めた。
正式な訪問ではなかった。王宮への申し込みを経ず、人目につかない形で接触の機会を求めた。なぜそうするのかを問われれば、答えに詰まっただろう。ただ、そうすべきだという感覚だけはあった。
アレクシス殿下は面会に応じてくれた。
部屋に入ると、アレクシス殿下は一度こちらを見た。表情の変化はわずかだったが、何かを察したのがわかった。
「どうされましたか?」
少し間を置いてから、話し始めた。
「先日、主聖殿から来た教会の者たちが学院に来ました。アーデン君に関する全ての記録を、一週間かけて確認していきました」
「記録の確認、ですか?」
「はい。それだけでなく、エーレンバルト先生への聞き取りも行いました。目的は明かされていません」
アレクシス殿下はしばらく黙っていた。
受け取ったものを整理しているような静けさがあった。即座に動かない、しかし聞いていないわけでもない——アレクシス殿下らしい沈黙だった。
「それは……単純な確認ではないですね」
「はい。私にはこれが何のための調査なのかがわかりませんが、アーデン君のためにいいことではない気がしています。アーデン君には手紙を送りました。ただ、それ以上のことが私にはできません」
「……わかりました。少し動いてみます」
それだけで、面会は終わった。
——————
数日後、場所を改めて面会した。
アレクシス殿下の傍に、見知った顔があった。フリーデンタール君。あの精霊術大会の来賓席で、アレクシス殿下の傍に控えていた姿と同じだった。
フリーデンタール君がこちらを向いて小さく会釈し、すぐに前へ視線を戻した。アレクシス殿下とフリーデンタール君の間には、すでに何かが決まっているような空気があった。
「私の方でも確認しました。学院を訪れたという教会の者たちは、教会の上位機関から派遣された調査官です。アーデンが調査対象になっています」
「上位機関からとなると……」
言葉が止まった。具体的な機関はわからないが、ただ、その重さだけは伝わってきた。
「はい。軽い話ではないでしょう」
アレクシス殿下は少し間を置いてから続けた。
「私的に動ける仕組みを作りたいと思います。教会の動きを把握し、必要な時に備えられるように」
「組織を作る、ということですか?」
「はい、ですが、王宮を動かすつもりはありません。動ける人間が集まっていれば、何かが起きた時に対応できます」
フリーデンタール君が静かに頷いた。
「学院長には、その顧問をお願いしたいと考えています」
少し間を置いた。
学院長という立場で王族の私的組織に関わること。それがどう見られ、誰にどう報告すべきか——いくつかの問いが頭に浮かんだ。それでも思い出したのは、あの日の光景だった。机に積まれた記録の束、誰も顔を上げなかったこと、羽ペンだけが動き続けていた音。その光景が浮かんだ瞬間、さっきまでの問いはもう意味を失っていた。
「……わかりました」
決断は、思ったよりも静かに下りた。踏み越えた、というより、ただ次の場所に足を置いた——そんな感覚だった。
「王国治安研究会という名前で動きます。表向きは穏当なものです」アレクシス殿下が言った。
「初期メンバーは?」
「私とルーカス、そして学院長、あなたです。当面は教会の動きの把握から始めます」
頷き、アレクシス殿下の声を反芻した。当面は把握から始める、と。表向きは穏当に、と。
心のどこかで、まだあの宛先のことを考えていた。ブランデル領。封をして、もう手元にない手紙の。
今自分がここにいることは、あの手紙の先にあった。
窓の外で、初夏の風が木立を揺らした。




