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「ハッターを放ってきたけど、彼は大丈夫なんだろうか」
ティールームに紅茶の香りはしなかった。紅茶など飲む気分には到底なれなかったのだ。ラヴィエルは暴動鎮圧の指揮をとらなければならなかったし、ヘレンは偵察に向かった。エクレイアとアルベールは前線に出るわけにもいかなかったからホテルに留まったが、そして勿論自分たちの警護に人員を割いている場合ではないとは理解していたが、それでも心はそわそわと落ち着かないのだ。…少なくとも、エクレイアは。
アルベールは一見、至って普段と変わらないように見えた。エクレイアはラヴィエルが置いていった報告書の束を捲りながら首を振る。
「わかりませんわ。とはいえ、逃げ足には自信があるようでしたから、私たちはそれを信じて祈るしかないですわね」
「そうだね。……こういう時、自分の身分が恨めしいよ」
「殿下」
「だってそうだろう、確かに暴動はそれだけで危険なものだ、どんな普通の人間にとっても。だが、僕が外に出るためには、勿論君にもだけど、どれだけ安全な道であったとしても、護衛が必要になる」
アルベールはちょっとだけ肩を上げた。
「勿論、僕には力がある。その僕の死は多方面を吹き荒れる嵐になる。そして、それが僕に権力を与えている。秘匿性がそれを補強している。それらはあの小さな少年にも今まさに与えられようとしているものだ」
エクレイアは唇を一度引き結んだ。それから、緩く指を組む。アルベールの言わんとしていることはエクレイアにもよくわかった。だが、首を横に振る。
「正統な王権とは決定的に違いますわ。歪んだものが無理矢理生み出されようとしている。幼い子供を依り代にして」
エクレイアは指を強く握った。祈りを捧げる時と同じように。
「それと、我らが殿下。軽々に『死』などと仰いませんように」
「言い方が御父上に似てきたな。それも成長の証?」
「……」
エクレイアは思わず唇を尖らせた。それを見て、アルベールはおかしそうに笑う。幼いころに見たきりの仕草だったが、彼は何も言わなかった。
「御父上は、ルーベルハイム卿は、何を考えているんだろうね?」
エクレイアは俯きかけていた顔を上げた。アルベールは、楽しそうに笑っている。だが、王族というものが真っ先に身に着けることになる仮面について、エクレイアは詳しかった。それはつまり、笑顔だ。
「私にもお父様の考えは理解も把握もできませんけれど…推測することならできますわ。的外れかもしれませんが」
「つまり?」
「気晴らしにはなりますかしら」
「なるさ。それに、何かを思いつけるかもしれない」
エクレイアは唇を緩めた。
「お父様の思考をなぞることで? 私、お父様にチェスで勝ったことがありませんのよ。未知の領域ですわ」
「おや、だが、卿のチェスの記録は無敗ではなかったはずだけどな」
「お母様ですわね。お父様曰く、お母様のチェスは超直感主義なんだそうですわ」
「ミセス・パルティアか。あれ、でも、エクレイアはお母様に勝っていたよね?」
「お母様のビショップを、私はナイトで完封できますわ」
「三竦みの親子なんだなあ!」
エクレイアは微かに笑った。母は父に強く、父は娘に強く、娘は母に強い。
「お父様に勝つために、お母様のチェスを研究したこともあるのですけれど……」
「結果は?」
エクレイアは苦笑を浮かべたまま首を振った。
「お母様は、どんな状況にも的確に対処する柔軟さと、キングには絶対に触れさせない鉄壁を同時に成立させますの。一方、お父様は相手の手を操って意のままに駒を動かすのですわ。自分の駒も、相手の駒も」
アルベールは声を上げて笑った。
「ルーベルハイム卿そのものじゃないか」
「それに似ていると言われる私の心境は大変複雑でございますわ」
「いやあ、我が国も安泰だ。それで、何故卿は夫人に弱いのかな、まさか妻には頭が上がらないとは言うまいね?」
「勿論。その理由は簡単で、お母様が守りを崩さないからですわ。いかにお父様であっても、動かぬ駒を動かすことはできないのです」
「成程、でもそれに君は勝ってしまう、と」
「私はその防壁を、周囲で守る斥候諸共削ってゆくのです。ですから…まあ、手数は嵩みますけれど」
「抽象的な説明だけど、想像がつくのがすごいね」
アルベールは、ティールームの窓辺にあるチェスボードへと視線をやった。先日エクレイアが遊んでいたものだ。ただしその盤上に駒はない。ただの白黒の板と、その隣に駒の寝床の箱が一つ。アルベールはすぐに首を振った。
「チェスをする気にはなれないな。それで、僕たちにもできるかな、ここにいながら、何か…、それこそ、ルーベルハイム卿みたいに」
「お父様のようにやったとしても、結局動くのは『誰か』ですわ。お父様は操者に過ぎない」
アルベールは、ふむ、と唸って首を傾げる。エクレイアはアルベールの視線を追いかけて行き着いたチェスボードの上に、記憶の中の駒を並べた。母はビショップを好む。そして、彼女のルークは鉄壁だ。だから、エクレイアはナイトを跳ねさせる。そして父は、エクレイアのナイトを射落とすのが上手かった。
「……お父様にとって、きっと私も駒なのですわ」
「ただの駒にあんな手紙を渡すかな?」
「………その話なんですけれど…」
エクレイアはチェスボードから目を離さずに、微かに目を細めて唇の端を下げる。チェスボードの上で、クイーンの幻影が揺れているような気がした。
「その……」
「愚弟のこと?」
「……」
アルベールの歯に衣着せぬ物言いに、エクレイアは思わず肩をすぼめた。アルベールはやれやれとばかりに肩を竦めた。
「愚弟、愛すべきジルベール。行く末は僕が決めるわけではないが」
エクレイアはアルベールを見つめた。
「子は親を選べませんわ」
「知っているさ。だから父上も、そしてルーベルハイム卿もただ見ている。今は、ね。それよりも僕にとっては、君があれを気にしてやっているのが意外だ」
「…一度は婚約関係にありましたのよ」
「それを叩き壊したのはあちらだ」
「それは………」
口ごもるエクレイアに、アルベールはくすりと笑う。指先は優雅に組まれて、人差し指は自分の手の甲を一定の調子で緩やかに叩いていた。
「僕は、なるようになる、という言葉が好きだが、結局のところ、なるようにしかならない、というのが真理なのだろうね」
はあ、と、物憂げなため息が落ちて、それを追いかけでもするように、ティールームに静寂が落ちた…その瞬間だった。
揺れた。
建物全体が、大きく揺れて、視界がぐらつく。ソファに座っていたエクレイアは、それでもなお自分の身体を支えるのに腐心した。音は聞こえない。いいや違う。耳が機能していないのだ。大きすぎる音を聞いてしまったから、許容量を超えて聴覚が麻痺した。エクレイアは耳を押さえて目をぎゅっと瞑り、鋭く息をする。じん、と、痛めつけられた鼓膜がようやくまた震え始めた時、耳に滑り込んできたのは悲鳴と怒号だった。
「殿下、ご無事ですか!?」
ぎりぎりと痛む頭に歯を食いしばりながら、向かいのソファに座るアルベールに駆け寄ろうとすると、顔を伏せていたアルベールが手のひらだけでエクレイアを押し留める。
エクレイアは頷くと、ドレスを引きずるようにして立ち上がる。窓は外側から割れている。散乱したガラスの破片を踏み付けながら窓に近づき、カーテンに隠れるようにして外を見た。
「…信じられない……」
クレーター。
そうとしか呼べないものが出現していた。
「新型の魔石爆弾かな?」
よろめきながらエクレイアの隣に立ったアルベールが、呆れたような声を上げた。
「ただの暴徒が持っていていい武器じゃないよ、これ」




