52
ひときわ豪華な観音開きの扉の前で、ハッターは足を止めた。エクレイアが見た限り、その扉は他の扉よりも新しい。つまり、この扉もまた、最近になって付け替えられたもののように見える。
「それでは、こちらに、我らが教主様がお待ちでございます」
さあ驚け、と、ハッターの目が告げてくるものだから、エクレイアは大げさに驚いて見せることにした。
「まぁ…! なんということ、わたくしはただ、あなたにお礼を申し上げたかっただけなのですわ。そのようなことまで……」
「私はただ、我らが主たるお方の祝福をお渡ししたに過ぎません。主は、あなた方のその信心深さにお心を打たれたのでしょう」
本性を知っているエクレイアたちとしては、いっそ寒気がするくらいに人好きのする微笑みを浮かべて言うものだから、エクレイアの隣のアルベールは面白くなってしまったらしい。まさかそんなへまはしないだろうが、もし万が一ボロを出すよりは、と、黙って、その場の会話をすっかりエクレイアに任せてしまうつもりのようだ。絶対半分は楽しんでるな、と思いながら、
「そんな……光栄の至りですわ…」
感激したように胸の前で祈るように手を組んで、声を震わせるエクレイアに、後ろからついてきていた赤毛の男が満足そうにうなずく気配がする。一瞬、シニカルな色がひらめいたが、ハッターはすぐに目を細めて、笑みの中にそれを隠してしまった。
「さあ、準備はよろしいですね? では、こちらへ。……教主様、我らが尊きお方、お客人をお連れいたしました」
張り上げたハッターの声に、応じる女の声が、扉の内側から響く。
その声に、ハッターは、両手を扉にかけて、恭しく押し開けた。
豪奢な装飾を施された扉が、音もなくするすると開く。重そうなのに、意外とそうでもないのかしら、と、エクレイアが思考を散らした一瞬に、アルベールが踏み出した。それに従って、エクレイアもまた、部屋の中へと足を踏み入れる。
広い部屋の中は、丁度、エクレイアたちが入った扉の真正面の壁に大きな採光窓があり、逆光になっていた。窓が少ない廊下と比べるとかなり明るい。眩しくて目を細めたその先に、人影が二つあった。大人の身の丈よりもさらに大きな背もたれを持つ椅子に腰かける人物と、その隣に立つ人物。
「よくぞ参られた。信心深き人々よ」
椅子に座る人物が、声を発した。それは、先ほどハッターに応じた女の声ではなく、しかしその声もまた、高く澄んだ声だった。
逆光に少しずつ目が慣れてきて、まず目に入ってきたのは、腰までたっぷりと伸びた髪を、細い鎖を編んだような髪飾りで飾った女。立っていても尚女の背より高い椅子に寄り添うように立ち、赤く塗られた唇を笑みの形にして、こちらを見据えている。
そして、もう一人。
椅子に座るその人影を視認し、その人物を把握したエクレイアは、絶句した。
(………子ども…?)
女に守られるように、豪奢な椅子に座っていたのは。
柔らかそうな色の薄い栗色の巻き毛が、色白の頬にふわふわとかかり、その年齢特有の愛らしい曲線を描く頬。大きくぱっちりした瞳はふさふさとまつ毛に縁どられ、唇はあどけない桃色。しかしまた、成長期の兆しを色濃く香らせる首筋や、幼さとは釣り合わない瞳の大人びた光。その造形が、絶妙なバランスで組み合わさった結果、そこにいたその人は、まるで天使のような可愛らしさと、少年少女が青年に向かう時の危うさいアンバランスさとを同時に備えていた。
先ほどの声は、この子どものものだ。
あまりのことに二の句が継げないエクレイアに、女が微笑みかける。
「そこなお嬢さん、神々しさに打たれてしまうそのお気持ちはよくわかりますよ。さあ、ジョン、お椅子を勧めて差し上げて?」
しゃらしゃら、と、女の髪に飾られた鎖が、微かな楽器のように鳴る。深々と頭を垂れて、ジョンは、エクレイアたちに椅子を勧めた。背の高い、さながら玉座のような椅子があるところから一段低くなった場所に置かれた長椅子に、エクレイアとアルベールは腰掛けた。
「あら、そちらの方はよろしいのですか?」
「私はここで」
女が、笑顔のままで首をかしげてヘレンを見れば、ヘレンは笑顔で辞した。そう、と、それきり女はヘレンへの興味を失くしたように、アルベールとエクレイアを順繰りに見た。
「わたくしは、イナンナ。こちらなる尊きお方の従者を務めさせていただいております」
蠱惑的な微笑みを浮かべて、女は少しだけ首を傾げた。椅子に座ったその子どもは、表情を変えずに、じっとこちらを見ているのみだ。
イナンナは、笑みを浮かべた後、すっと膝を折る。
「尊きお方、ルキオ様。あなた様のもたらされたお恵みを辿り、今ここにまた、新たな迷い子が訪れました」
跪き、祈るような姿勢で、子ども…ルキオと呼ばれたその椅子の上の人物に語り掛けたイナンナに、エクレイアは微かに表情を動かした。
(あれが、ルキオ。あの子が……教主、ルキオだというの? ……あんな、子どもが?)
なるほど、ハッターの言っていた、『魂消る』というのはこのことだったのか。
(こんな、大それたことをしでかして、二つの街を、国を翻弄しているものの主が?)
まさか、である。エクレイアは、すっと目を細めた。そして、少しだけ体を傾けて隣を窺えば…アルベールもまた、驚愕していることがわかる。
いや、表面に出てくる表情自体は、なんら変わらない、普通の驚愕とでも言ったところか。しかし、その唇は、微かに下に引っ張られ、ちらりと僅かに犬歯が覗いている。この、驚いた時の表情の癖は、小さく気づきにくくはなったが、幼いころから変わらない。まるで反射的に威嚇でもしているみたいだ、と、からかったこともあったっけ。まあいい、今はそれよりも、だ。
「お兄様……」
感極まったような声を意識して、唇を震わせれば、アルベールはにこりと笑う。その微笑みの中に、犬歯は隠れた。驚きから立ち直ったのだろう。
「まさか、ルキオなる尊きお方と相まみえることができるとは、露の一つも思っておりませんでしたので、何を申し上げるべきか……いや」
感じ入ったようなせりふを紡ぎながら、そっと自らの腕に触れていたエクレイアの指に、逆側の手を触れさせた。援護射撃か、次の句を求めているのか。
「わたくしどもは、ただ、あのお水をくださった親切なお方に、お礼を申し上げようと参っただけなのですわ。それを、このような…このような機会を頂けて…」
声を震わせて、感極まったように目を伏せながら、かすかに開いた視線で、イナンナと、椅子の上の人物を観察した。
赤い唇に穏やかな微笑みを浮かべて、エクレイアやアルベールを見下ろしているイナンナは、その後方から差し込んでくる光も相まって、まるで聖母のようだ。
(……演出としては満点ね)
後光を上手く使った演出を冷静に分析しながら、エクレイアは視線を隣にスライドする。
椅子に座るルキオという人物に。
表情をまったく変えずに、真っ直ぐにこちらを見ている。
(………傀儡、っていうのが妥当なところかしら)
その、陶器の人形のように滑らかな頬が、微かに動く。唇が開いた。
「我が恵みは、弱きもののために。あなた方が困っているのならば、そこに光はありましょう」
ガラス玉のような瞳が、ひたりと、エクレイアを見た。エクレイアも、真っ直ぐに、その視線を受け止めて、その瞳を見上げる。
イナンナが、その様子を見て、ふふ、と、吐息のような笑い声をあげた。
「あぁ、美しいお嬢さん。光に愛された方。あなたは主なるルキオのお恵みを求められますか?」
エクレイアは、イナンナの方を見る。その唇の笑みは、変わらず聖母のようだったが、エクレイアはそれに、蛇の幻覚を見た。それは、ルべリウスの従神たる水神ジュネーを象徴する美しき蛇ではない。狡猾の象徴たる、悪しきものだ。
エクレイアは、アルベールの腕に触れていた指先に、少しだけ力を込めた。
アルベールが、静かに首を垂れる。一国の王子にとんでもないことさせてるなあ、と、人ごとのように考えながら、エクレイアは、祈るように、アルベールの腕に触れていない方の手を胸の前で握った。
アルベールが、微笑んだ。
「ああ、また、あの恵みを賜ることができるなら、それは、至上の喜びです」
イナンナの瞳が、アルベールを見つめて光った。唇には蜜がしたたるような蠱惑的な笑みを浮かべて。
「もちろん。主はお与えになりますよ……」




