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「ティフォンの暴動以来、広場に水売りのワゴンは出ておりません。売り子を勤める者も、今はあの館にいるものと」
「あら、それじゃラヴィエル様もやりやすいかもしれませんわね?」
「そうだね、彼だったら…町長を狙い撃つかも。……それで、この馬車はどうするんだい?」
「この後、部下がここへ参りますので、少し離れて待機させておきます。では…」
「いざ出陣、かしら?」
エクレイアがおどけて言えば、ヘレンが微笑んで頷いた。
三人は、そこから、石造りの建物を目指して歩く。道中、足元気を付けて、と、アルベールとヘレン両方から何度も言われたエクレイアが、一度も転ばず目的地にたどり着き、過保護がすぎないかしらと頬を膨らませたのはまた別の話。
到着した館は、予想以上に大きかった。しかしそれと同時に、予想以上に古い建物でもあるようで、石壁はあちこちすすけてひび割れ、または蔦が巻き付き、その様相はさながら幽霊屋敷のようだ。
「……随分古い建物ね?」
「おおよそ百年前の建物のようですね」
「ああ、どこかで見たことあると思ったら、あの役場か! 外廊下の造りがそっくりだ」
「ああ、確かに、建築様式が似ている…ようですけれど、手入れの差かしら……」
「かつては名のある貴族の別荘だったようですが、ここ数十年の間、家主不在だったようですね。忘れ去られたのか、それとも家が没落したのか、その辺りは私どもの管轄ではございませんでしたので、存じ上げませんが……。そこに、彼らが棲みついたようです」
なるほど、そういうことか。古さを魅力に変えてしまうほど美しかったレクセンのそれとは異なるこの、古さがそのまま経年劣化に直結してしまった具合は、長らく放置されていた故のものらしい。
少しずつ近づけば、その様子がより詳細に見えてきた。静謐な森の中に佇む古びた石造りの屋敷、そして、
「……いるね」
「そりゃ…いますわよね」
森に半分飲み込まれたような庭に、白いローブの人間たちが、ちらほらと見える。朽ちて最早半分以上崩れてしまった塀の向こうを見ながら、息をひそめて思わずそう言い合うエクレイアとアルベールを、ヘレンが促した。
「参りましょう、お二方とも」
緊張した面持ちで頷くエクレイアとは裏腹に、アルベールは非常に楽しそうだ。ヘレンが自然体なのは置いておいて、それは解せないと、エクレイアは眉根を寄せる。
「……楽しそうですわね、殿下」
「うん、とっても楽しいよ、エリィ」
王族たる者の肝の太さなのか、はたまた王者の余裕なのか、今の状況にはあまりにもそぐわない煌びやかな笑顔でそう返す王太子殿下に、エクレイアは苦笑いするしかない。
差し出された腕に手を添えて、エクレイアとアルベールは、朽ちかけた門を目指して歩き始めた。その後ろを、静かにヘレンが続く。
可愛らしい鳥の声が頭上から木漏れ日と共に降り注ぎ、木々の間を風が吹き抜ける音がする。その中を、兄と妹は、柔らかな草を踏むささやかな足音をたてながら、優雅に進んでいく。しかしながら、影のように付き従う美しい黒髪の従者に守られた、鮮やかな金の髪と、しとやかなプラチナブロンドという、高貴な兄妹は、あまりにもその森の中では異質だった。
「何者だ!」
三人に気づいた白いローブの男が、走ってくる。勿論それは、噴水にてエクレイアに水を渡した男とは違う、赤毛の男で、そして当然ながら、噴水の時のあの不可思議なほどに親しみやすい雰囲気などみじんも感じられなかった。むしろ、そこにあるのは、明確な敵意である。
まあ、予想通りの反応だ。
アルベールがエクレイアを庇うように半歩前へ進み出て、エクレイアはアルベールの腕に縋るように隠れる。ヘレンはさりげなく、二人の前へいつでも飛び出せる位置へ体を動かした。
「やあ、初めまして。僕らは、レクセンで神聖な水をくれた親切な人に直接お礼を言いたかったのだけど、まずかったかな?」
アルベールの後ろから顔を出して、エクレイアが注意深く男の方を窺うと、男の方も、疑わしげな視線をこちらに向けていた。こちらに、というよりは、その視線はどちらかと言えば、二人の後ろに控えるヘレンに、より強く向けられているようだ。確かにこの三人の中で、一番警戒しなければならないのは、いかにもな貴族のお嬢様お坊ちゃまではなく、その従者であるらしいヘレンだろう。
「水を……?」
「ああ。シェステニアの噴水で。妹が、どうしてもあの彼に直接お礼を言いたいと言うから、僕としてはぜひそれを叶えてあげたかったんだ」
よくまあすらすらと、と、思わないでもないが、社交で培われ外交で研ぎ澄まされた王太子の美辞麗句スキルは伊達ではないのだろう。
「妹……そういえば…ジョンがそんなことを……」
男はしばし考え込んでいたようだが、やがて二人の方を見て、
「お客人ならば申し訳ないが、ここは神聖な館。確認してまいりますので、少々こちらでお待ちください」
そう言って、返事も待たずに館の方へ走っていく。エクレイアとアルベールは顔を見合わせた。
「追い返されて強行突破かと思っていたけど……案外そうでもないんだね?」
「そんな物騒な想定をなさっておいででしたのね…」
「何事も最悪のケースを想定しておかないとね」
「それもそうですけれど…、できれば、積極的にそうならないようにしなければなりませんでしょう……。なんて、冗談はさておき」
「僕としては割と本気だったんだけど」
「そこは冗談にしておいてくださいませ! …恐らく、私たちはあちらにとって、上客候補、といったところでしょう。無下にはできませんわよね、この状態だと。ラヴィエル様に、メルム草の売買を急遽、許可制にして頂きましたし。皇帝陛下のご威光ってすごいですわね」
にんまりと悪い顔で笑うエクレイアに、アルベールは含み笑いを返した。
「なるほどねえ、ストックしておいたメルム草も、売れなくなっちゃったわけだ」
「さらには壺も売り上げが見込めず。しかしそこにきて、上客になりそうなカモがいる。となったら、どうでしょう?」
「だから兄妹でここに来る必要があったのか。そうだね、貴族の顧客、喉から手が出るくらい欲しいよねえ。となると例え大本陣でも、無下に追い返しはできない。なあんだ、僕としては囮になる気満々だったんだけどなあ」
「そんなことさせられるはずがありませんでしょう!」
おかしそうに笑うアルベールに、エクレイアは深々とため息をつく。心なしか、ヘレンも困ったような微笑みを浮かべているように見えた。
それにしても、まったく、異国の地で、自らの国の王太子を囮になど、できるはずもなかろうに。そのようなことをやる、と、思われているのか、と、不本意な気持ちでいると、
「閣下ならやりかねないなあって」
「お父様と一緒にしないでくださいませ!?」
「でも、君にも慧眼の種が……」
アルベールは、途中で言葉を切った。反論を用意していたエクレイアも、言葉を呑み込む。
こちらへ向かって歩いてくる、白いローブが、二人。
一人は、先ほど門で三人を呼び止めた、あの赤毛の男。そしてもう一人は…。
「やあ、これはこれは! 天使のようなお嬢さんと、そのお兄様!」
シェステニアの噴水で、エクレイアに水を渡した男。
「ジョン、それじゃあ…?」
「このお二方は、神のお導きによってレクセンの、我らが主の元にいらした方々だよ。こんなところで待たせておくなんて、無礼極まるね」
「それは…申し訳ない。なら、ジョン。案内はお前に頼む。私はお客様をお迎えする準備をしてくる」
「ああ、そうしてくれ。…やあ、お待たせいたしました、お二方」
慌てて館の方へ駆け戻っていく赤毛の男を見送ってから、男…ジョンは、あの、親しみを込めた笑顔を二人へ向けた。よく見ると、唇の端に不思議な形の傷がある。
「急いでお二方を歓迎する準備を整えているはずですから、どうか、ゆっくり歩いて向かいましょう。従者の方も、どうぞ」
ジョンは人懐っこく笑って、三人を招く。
エクレイアとアルベールは顔を見合わせ、微笑んだ。




