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「何を考えている、エクレイア!」
ラヴィエルの怒声が空を切って走る。ぴっ、と、思わず両肩を跳ね上げたエクレイアの方へ、ヘレンがずいっと近寄った。その麗しの微笑みはすっかり消えてしまって、微かに眉根が寄せられてすらいた。
「お嬢様、お手を、指をこちらに。お早く。傷が残りでもしたら私は旦那様に一生顔向けができません。まったくなんということを」
「まったく、君は時々驚くほど突飛な行動をとるよね」
「……そんなに怒ります?」
怒ります! と、誰よりも先んじて、珍しく強い口調でヘレンが言えば、その通りだと二人が頷く。
ヘレンは、細く裂いたハンカチをエクレイアの指に巻きつけながら、テーブルの上のブローチを憎々しげに睨んだ。
「そちらのブローチは、処分しておきます」
「待って、これお気に入りなのよ」
慌てたエクレイアを見て、アルベールは呆れたように、
「ならなんでそんなことをしたんだ」
「だって、わかりやすい嘘の証明には手っ取り早いと思って……」
「だからと言ってお前が傷つく必要はないだろう、俺はそこまで愚かじゃない」
「あなたを愚かだと思ったことは一度もありませんわ」
「よく言う。……受け入れがたいが、この水がただの水だとはよくわかった。お前が、指を刺すまでもなく、な」
「言葉が痛いですわ」
「針よりは優しいつもりだが?」
「ごめんなさいましね!?」
確かに、考えなしにやりすぎたとは思った。反省している。考える前に体が動いたのだ。目の前にいるこのエルヴィアーナの皇統を、どうやって決定的な疑念を抱く下地を持たせるか、それだけを考えた結果だった。やったことはあまりにもお粗末だと、今もうすでに反省している。
ハンカチを裂いただけだとは思えないほどに綺麗な即席包帯が巻かれた人差し指を眺めながら、エクレイアは、
「この水はある意味では毒です。そして、一番恐ろしいのは、この毒を、毒だと正しく認識している人間が、あまりにも少ないということです」
「……先ほどまでの俺のようにな」
「言葉が痛い」
「針よりはましだろう」
これはしばらく引っ張られる奴だ、と、察したエクレイアは、軽く咳払いをしてから、
「ティフォンの壺が二種類あるのは、恐らく、前者の種類の壺が売れなくなったから。より人が求めやすいものを作り出したのです。ですけれどそれもまた張りぼて。しかも、わかりやすく求められる、その効果は表れない。当然ですわ、張りぼてなんですもの。だから……」
「ティフォンから排斥されようとしているのか、ルキオは」
ラヴィエルは、納得したようにうなずく。
「欲望に火をつけるだけのティフォンの壺とは違って、レクセンの水は、人が縋りたくなる要素を含んでいます。そして小賢しいことに、『飲み続ける』という条件もある。だからこそ、その毒はなかなか抜けない。甘いのです、その毒は。あるいは回りきっても気づかないかもしれない」
エクレイアは、静かに笑って、つづけた。
「ティフォンがなぜ壺だったのか、よくわかりましたわ。ティフォンはレクセンよりも、より商人の気質が強い」
「なるほど。そうだねえ、確かに、この街の人々は農業に対して研究者気質なんだなあとは思っていたけれど、そうか」
それを利用しているんだ、と、アルベールが呟いた言葉の終わりが、部屋の中に重く響いた。
「……さて」
その重みを拭い去るように、エクレイアは静かに言った。
「それでは、本陣に切り込みましょう」
「それはいささか逸りすぎではないかい?」
「あら、危なくなれば撤退いたします。戦略的撤退、私も覚えなくてはいけませんもの」
「ははは、言うねえ」
「という冗談はさておきまして。このまま手をこまねいていたら、着実にエルヴィアーナに広がっていきますわよ」
「それは困るねえ。そのあと食い尽くされるのはわが国だ。いや、もしかしたら、同時進行かもしれない。ああでも僕たちが勝手にしていいものかは……」
アルベールは、腕を組んで首をかしげて見せる。ラヴィエルは肩をすくめた。
「我が国から救援を要請したようなものだ、動きを制限するつもりもない。…なんなら、兄上と父上に許可を賜りましょうか」
「わあ、皇帝陛下と皇太子殿下直々に? それはいいね、各段に動きやすくなる」
「待って。待って、それはまだ大丈夫です!」
「まだ?」
「なんでそんなに楽しそうなんですか殿下……!」
「おとなしくいい子で視察していたから、ちょっとくらいはしゃいでもいいかなって」
「殿下!」
冗談だよ、なんて宣うこの美貌の男に、一体どこまで冗談なのかと問い詰めたいところだがぐっとこらえて、
「とはいえ、そんなに威勢のいいことはまだいたしませんわ。ねえ、ヘレン」
「はい、お嬢様」
「お願いするわね」
「承りました、お嬢様。くれぐれも、お怪我などなさいませんように」
「この場合はそれ、私が言う側よね?」
「具体的にはブローチなど……」
「しません!」
これはヘレンにも引っ張られそうだ。自業自得だとはわかっているが、勘弁してくれ、と頭を抱えたいエクレイアであった。が、なんとか持ち直して、
「恐らく、ルルイユ王城についてはお父様がなにかしらの動きをとられる…いえ、既にとられているでしょうね。私どもは遊撃部隊、あるいは先鋒といったところかしら」
「……ほんと、ルーベルハイムが味方でよかったよ」
「恐悦至極ですわ。お父様に伝えておきますね」
エクレイアは腕を組み、コルクが抜かれた小瓶を睨んだ。
「手っ取り早いのは、この街にある拠点を引きずり出すなり叩くなりすること…かしら」
「君、思いのほか随分と荒っぽいこと言うんだね」
「迅速果敢は素敵だと思いません?」
「それに関しては同感だ。……これは、閣下と、ヘレンに聞いた方がいいかな?」
二人の視線を受けたラヴィエルは、
「ルキオが水を扱うワゴンはシェステニアの噴水の傍に出るが、そのワゴンは夕暮れと共に消える。街のはずれにある屋敷に消えていくということらしいが」
「あら、随分わかりやすくていらっしゃるのね?」
「そこまでは、な。だが、肝心の教主の姿は確認できていない」
「ううん、そこまで簡単にはいきませんのね……、ええ、仕方がないですわ」
ヘレンは少し首を傾げ、
「では、私どもはそちらの方を重点的に調べましょうか、お嬢様」
「そう…ね…?」
どうしたものか、と、エクレイアが答えに窮していると、迷いなく頷いたのはラヴィエルだった。
「そうしろ。レクセンに突然現れた旅人の調査に随分とリソースを割かれていた」
「それは、申し訳ございません」
「その辺りもきちんと連携した方がいいね。まあ、わかりやすい分割でいい? ラヴィエル閣下の部隊は街に、ヘレンたちはその館に」
ヘレンはエクレイアを見た。エクレイアは静かに頷く。
「そうして。よろしくね」
「承りました、お嬢様」
それでは、と、ヘレンが胸に手を当て、深々と一礼する。お願いね、と、エクレイアが答えると、艶やかな微笑みを浮かべて、流れるように退出した。
「目は広がったね」
「ええ、正直助かりました」
「おや、本人に言ってやればよかったのに」
アルベールの言葉に、ラヴィエルが少し顔をしかめる。そのあまりにも露骨な意思表示に、アルベールは面白そうに笑った。この人、ラヴィエルとヘレンの微妙な雰囲気を分かった上で言っている。
エクレイアは咳払いをした。
「レクセンやティフォンでのやり口はわかりましたわ。ティフォンは放っておいても、しばらくは爆発的に広まることはないでしょう。問題はレクセンですけれど……」
「そうだね。首魁を潰そう!」
「……嬉しそうにおっしゃいますわね…」
いつかの悪戯っ子の再来だ。今にも手をたたきそうな楽しげに弾んだ声と、王子様スマイル。そして、笑わない瞳。
「嬉しい? いや、楽しい、だよ。ルルイユに繋がる根っこは探さなきゃいけないから、まとめて焼き払うのは控えてね、エクレイア」
「私ですか!?」
ラヴィエルが低く笑った。




