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馬車が滑り込んだ城のポーチには、メイド長ルシアンナと、僅かばかりの騎士たちが控えていた。ここはあまり使用されない出入り口であり、幼い頃からこの城に頻繁に出入りしていたエクレイアですら、片手の指で事足りるほどしか使ったことがない。
先に降りたリージオが差し伸べた手を取って馬車から降りて、少し乱れたドレスの裾を、申し訳程度に整えていると、やや後方につけた馬車から降りてきた人影に、ルシアンナと騎士たちが一斉に深々と頭を下げる。
「出迎えをありがとう。お忍びという扱いだから、あまり大仰なのは止してくれ」
穏やかな微笑みを浮かべたラファエルが、ラヴィエルを伴ってエクレイアたちの方へと向かってきた。その二人に礼をしてから、リージオはルシアンナに向き直る。
「陛下と殿下はどちらに?」
「すずらんの間でございます」
「ではそちらへ。…ああ、いや、案内は私が代わろう」
思案げにそう告げたリージオに、ルシアンナは深く一礼すると、さっと道を開ける。開けたそこを、先頭をリージオが進んだ。続いて、ラファエル、ラヴィエルの順に続いき、最後をエクレイア、その後ろをルシアンナや騎士たちが続く格好だ。
エクレイアは、ベルラインのドレスを引き摺らないように気を付けながら、注意深く周囲を伺う。王城を訪ねるにしては些か簡素に過ぎるものの、お忍びであれば許されよう。クリノリンの重みを気にせずに歩くことができるのは、今のエクレイアにとっては僥倖だった。
エクレイアの靴の踵が、カツン、と、一際高く音を鳴らした。
本来、回廊を歩むに当たって、不必要なほど足音を立てるのは下品とされて忌み嫌われる。走ることと同じく、マナー違反とされているものだ。要するに、大きく足音が立つほどドタバタするなというのが意訳だろうか。
高らかに響いた音に、ちらりとリージオが視線を投げた。その足が静かに止まる。
エクレイアは、口元を手で隠し、慌てたような仕草で、慌てることなく声を発した。
「あら、まあ、これは、とんだご無礼を…」
「いや、気にしないでおくれ、エクレイア。君でもそんなことがあるのだね」
意図を隠したリージオの視線がゆらりと彷徨う中、この場における最上位にあるラファエルが、鷹揚に笑う。エクレイアが謝意を込めて一礼すると、何事もなかったかのように、リージオがまた歩みを進めた。
エクレイアのすぐ前を歩いていたラヴィエルが、前を向いたまま小さく囁く。
「お忍び、は、どれほどの規模だ」
「ごく限られた範囲のはずなのですが」
「……ふむ」
「お父様の仰る通りになりましたわね」
一度止まった一行の足取りに慌てたように、微かに聞こえた遠ざかる足音。なるほど、既にそこら中に耳があるらしい。それにしては幾分お粗末にも見えるけれども。
それを追い払うのは、恐らくこの場ではエクレイアが適任だったのだ。まさかリージオや、ラファエル、ラヴィエルにやらせるわけにもいくまいが、使用人達には荷が重い。何せ異国の皇族の御前、下手すれば不敬罪の可能性すらあるからだ。最も、気付けていたのかという問題もあるが。その点、エクレイアの立場は最適だった。この場における最上位は無論のことラファエルであるが、リージオはその案内役としての立ち位置にある。そしてその娘であるエクレイアにもまた、父親に付随する力がある。そしてまた、姫君である故の身軽さも。それ故の敢えての非礼。リージオは気付いていたのだろう、振り向くにも視線を寄越すにも、ひどくゆったりとした動作だった。しかしながら視線を戻すその一瞬に、それがいた場所を流し見る仕草だけ見ても、空恐ろしいとしか言えない。何せそこは、前を歩くリージオとラファエルからは丁度死角に当たるのだから。
…しかし、咄嗟に出たのが足音だったというのは正直、悔しいと、エクレイアはかすかに目を伏
せた。もっと良い方法はなかったものかと思わなくもないが…。
思考の迷宮にはまりそうな気がしたので、エクレイアは、今はこれが最善だったと思うことにした。反省は後でもできる。
今は実にもならない考えを、軽く頭を振って追い出すと、ドレスを少しつまんだ。
「手助けはご入用か、姫君?」
「まさか。ご心配痛みいりますわ、ラフィアシウス公爵さま」
笑みを含んだラヴィエルのささやきに、微かな微笑みを口の端に乗せて返すと、猫のように静々と歩み始める。大理石の床に、相応しい足音が浮かんだ。
よく知る庭を歩くリージオの足に全く迷いはない。入り組んだ城の中を、最も人通りが少なく、そしてまた、貴賓と共に行くのに相応しい、一定の華やかさを持つ通路を通って行く。ある程度の人払いはされているようで、人とすれ違うことがない。打ち合わせをしているようには見えなかったが、この暗黙の了解というか、無言の意思疎通が時折恐ろしくもあるエクレイアである。恐らく…、と、背後を歩むルシアンナを伺って、エクレイアは瞬きを多くした。
人払いをしたのはルシアンナだろう。そしてルシアンナはメイド長。基本的には大抵の場所に届くその声が、その人払いが一番効くのはメイドたちであるはずだ。それならば、
「そこ」
廊下の端に見える紺のスカートとエプロンは。
「何をなさっておられるのかしら」
エクレイアが放った声に今度こそ、集団が足を止めてしまう。同時に、その人影が駆け出した。
「追え!」
一閃、響いたリージオの声に、騎士二人が駆ける。近衛兵の制服が翻り、腰に帯びた剣の音がけたたましく鳴り響いた。
「走れるメイドの形を使ったところが、なんとも周到ですわね」
「申し訳ございません、わたくしの監督不行届きでございます。ご処断は如何様にも…」
「あれは、お前の直属ではないだろう」
廊下の向こうに遠ざかった喧騒を見送るような形で呟いたエクレイアの耳に、ルシアンナとリージオの声が届く。ルシアンナの声は、僅かに動揺を帯びていた。この鋼の女性がここまで動揺するとは。
虚を突かれたように、腰を折っていたルシアンナが、顔を跳ね上げる。
「しかし、あれは」
「制服だけを奪った偽物だ」
「……では、セリーンでは、ないと…」
「お前も疑っていただろうに」
微かに、ルシアンナの頬に赤みがさす。エクレイアはルシアンナの腕を取り、励ますようにさすった。本来ならば使用人にこのようなことをするのはありえないのだが、エクレイアにとってルシアンナはこの城においての母のような存在だ。
「マダム・ルシアンナ、今の制服はセリーンのものなのね?」
「はい、エクレイア様。あの服を身につけるメイドの中では最も足の速い…メイドで…」
「知っているわ。先日メリア嬢のことを走ってあなたに伝えてくれた子よね」
「その通りでございます。あれがセリーンであったのなら、もう騎士様は追いつけますまい。しかし……」
「あのメイドは、セリーンほど足が速くないのね?」
「はい…。それに、セリーンの服ではございましたが、靴が違いました。セリーンは走るために、一般のメイドよりもさらにかかとの低い靴を履いております」
「流石の観察眼と把握能力ね。……お父様」
ルシアンナの腕を、ねぎらうように数度叩いてから、エクレイアはリージオに向き直る。リージオは静かに頷いて、控えていた残りの騎士のうち、一人に命じた。
「メイドのセリーンを探せ」
「はっ!」
命じられた騎士は、即座に反応し、何処かへ消えた。
「エクレイア様…、ルーベルハイム公…、一体……」
「どこかに閉じ込められている可能性があるから、無事かどうかを確かめるのよ。靴まで同じにしていなかったところを見れば、そこまで精巧な変装をするつもりはなかったようだし、大丈夫だとは思うけれど」
念には念よ、と、片目を瞑れば、ルシアンナはほっとしたように息を吐いた。
それまで、黙って様子を見ていたラファエルとラヴィエルが、互いに目配せし合う。
「…随分と、手厚い歓迎だったねえ」
「も、申し訳…!」
「気にしないで、マダム。あなたのせいではなさそうだから。我らが友人である彼女にとって大切なあなたを責めようなどとは思いませんよ」
王子様の気品と、身震いするような凄みを絶妙にブレンドした微笑みでにこやかにそう宣うと、ラファエルは静かに己の弟を見た。
「……今更、お止めになるあなたではないでしょう、兄上」
「ふふ、勿論だよ」
弟の低い囁きに、浮かべていた微笑みを満足げなものに塗り替えて、ラファエルは頷く。
屋敷で見せた、天真爛漫な好青年ではなく、そこにいたのは紛れもなく、一国の王の器だった。
「さて、手厚い歓迎にお応えするためにも、ご案内いただこうか、王の元へ、ね」
リージオは、エクレイアは、そしてその場にいたルルイユの者たちは、ただ頭を下げて恭順を示した。




