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蹄の音がする。
馬車の中で、僅かに緊張した面持ちで座るエクレイアは、心地の良い拍子を刻む微かな揺れに、耳をすませていた。
「エクレイア。緊張するかい?」
「……少しだけ」
いつかのように父が向かいに座っている。
しかしそのいつかのようには、心穏やかではいられなかった。いや、そのいつかといっても、さして心穏やかであり続けたわけではなかったのだけれど。
形としてはお忍びでの来訪であるから、この馬車も、家紋に覆いがかけてある。そしてもうひとつ。紋章に覆いをかけられた馬車が、エクレイアたちの乗る馬車を追うように駆けていた。
「耳がある、そうわかっている場所で、平然を装うのは、やはり」
「…それもそうだね。こればかりは慣れだが、確かにあまり慣れたいものではないな」
苦笑して、リージオは目を細める。
いざとなればそれも含めて完璧にこなしてしまうエクレイアだが、それがちゃんと負担であることに、気の毒に思いながらも安心した心地がするのは、貴族としては失格だ。しかし、どれほど化け物じみた恐れ方をされようとも、リージオはただの人、そして父親である。
ルーベルハイムの当主であり、ただの父親である彼の内には常に、厳しくあらねばならない在り方と、優しくありたい心が同居している。
いずれは王宮で、ひとりで戦わなければならないエクレイアにとって、長い目で見ればここで厳しく接することの方が余程ためになるとわかってはいても、やはり、愛娘を甘やかしたいのがリージオの本心だった。もちろん、彼女が戦う時、側に誰かがいるのが一番いいのだけれど。
じっと、リージオに見つめられて、エクレイアは落ち着かない気持ちになって身動ぎをした。それは優しい父親の瞳というにはあまりにも強い光をたたえていたからだ。まるで全てを見透かされているようで、とてつもなく落ち着かない。
「……な、なんですか、お父様」
「いいや、何でもないよ」
そう答えながら、リージオは内心、深いため息をついていた。憂鬱な心地だと、愚痴のようにこぼしたくなる。それが表面に一切ないのは、流石はルルイユの参謀というだけあった。
エクレイアの隣で、共に戦う、誰か。
そうはいっても、まあ、婚約破棄を行なった以上、エクレイアの隣りにはひとまずしばらくの間は、誰が来ることもないだろう。真面目な娘のことだから。王族との婚約破棄がどのような意味を持つのかを、しっかり理解している。そして、だからこそ、しばらくは、そういう異性を寄せ付けることはないだろう。きっと、形だけは、体裁だけは、ということは頭の片隅にもないだろう。
せめて気の合う同性の友人がいれば、と、思わなくもないが、ルーベルハイムの名による威光と、それに相応しい実力を兼ね備えた娘には、そもそも貴族の令嬢の親たちが、自分の娘を近付けたがらないのだ。万に一つの過ちすら、厳に戒めているエクレイアには。
エクレイアの側には常に、アルベールとジルベール、二人の王子がいたのだ。いや、この場合は逆で、エクレイアが常に、二人の王子の側にいた、と言うべきか。
しかしだからこそ、彼女の側には今、心を許せる戦友がいない。その在り方と立場の両面から見て、それはきっと仕方のないことなのだとしても、それは年若い娘にはあまりにも酷だろう。今の自分ですら、妻と、そして共に戦い、背を預けられる友があると言うのに…。
と、理解してしまえる父親だからこそ、出来る限り、今の王城からは遠ざけてしまいたいのだが。
そしてそれには、ラファエルの申し出は行幸だったのだ。しかし、そこに至るまでにはあまりにもな困難がある。さっさと片付けて、心に憂いなく、この書物を愛する娘には、あの美しい文壇の国へと向かって欲しいものだ、と、リージオは一瞬だけ目を伏せた。
すう、っと、リージオの目が細められる。エクレイアは、刹那にして変わった空気を敏感に察知し、背筋を伸ばして表情を引き締めた。
「エクレイア。城には常に耳がある、ということともうひとつ、お前は注意をしなければならないことがある」
緊張した面持ちで、エクレイアが顎を引いた。まとめた髪から微かにおくれたホワイトブロンドが、窓からこぼれゆらめく日差しを反射してきらめく。
「メリア嬢とその取り巻きは、今のところ捨て置いても構わないだろう。…だが、ジュリアナ妃とその一派には、特に気をつけろ」
「……それは、先日の」
「それもある。だが、それだけではない」
「…………」
息を微かに吸い込んで、エクレイアはそれ以上何も聞かなかった。
聴いてしまえば考えてしまう。考えてしまえば、どれだけ出さないように努めても、僅かばかりには顔に出てしまう。それを目に留められてしまえばいずれ足をすくわれてしまう。足をすくわれてしまえば、明日には生きてはいられない。
それは他でもない、目の前の父から教わったことだ。
リージオは微かに顎を引いた。まるで、それでいい、と、言わんばかりに。
知りたい、聴きたい、それ自体はとてもいいことだ。探究心は何よりの宝だ。知識欲は常に持ち続けなければならない。それは成長の糧を得るために最も適しているからだ。しかし、それを使いこなす術を知らないのならば、知りすぎては毒である。好奇心は猫をも殺すのだ。
幼い頃の、好奇心の塊のようなエクレイアに、リージオが何度も言って聞かせた言葉が骨身に沁みて、エクレイアは好奇心を制御できるようになっていた。その、手綱を取られた本能が、直感のように告げる。
これはダメだ、それ以上は知らなくていい、と。少なくとも、今は。
「それでいい、今は。どの道、いずれお前は知ることになる」
「………時が来れば、いつか?」
「ああ、時が来れば、必ず」
リージオは深く頷いた。言葉足らずな親子を乗せて、馬車は王城へと走る。
壮麗な白亜の城に、その白亜を包む青空に、淀む黒雲の幻を見た気がして、エクレイアは微かに眉をひそめた。
滑るように、馬車はルルイユの王城へと向かって駆けていく。
軽やかな蹄の音が、エクレイアとリージオの耳には微かに届いていた。




