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“前”の彼女は、信仰というものには酷く無頓着だった。仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。何を信仰するのも自由であったがために、何を選ぶ必要もなかったのだ。それ故に、彼女は何も選ばなかった。強制もされなかった。ただ、あるものを、あるがままに、好きなように、好きな時に。信仰でさえ、それが許された。可能だった。
そんなことはエクレイアからしてみれば、あり得ないことだ。だが、彼女は“そう”だった。それが当たり前だった。
酷く不和が起きそうなその記憶さえも溶け合っているのだ。エクレイアは、ありえないその現象さえ“それもありか”と受け止めてしまっていた。異物であるそれさえも、元からあったものとして、受け入れられたのだ。
だが、それでも、彼女がいた場所ではまかり通ったそれも、彼女がいた世界ですら、通らない場所があった。その知識も今、エクレイアは備えている。
ルベウム教が絶対であるこのルルイユにおいて本来あるべきではない、ルベウム教以外の宗教。それを何と呼称するのか、きっとこの世界にはその名詞すらない。“カルト宗教”という概念が、恐らくないのだ。
だからこそ、恐ろしい。
宗教という、かたちのないものを盲信する人間がなにをやるのか、いや、“なにもかもをしてしまう”ということを、前世の記憶は語っている。
“それ”が穏やかなものであるならいい。ただ生活を、心を、豊かにするものであるならいい。
だが、一度一線を越えてしまったならそれは。
それは、明確な、狂気足り得る。
「ルキオなるものは、以前より存じ上げております」
リージオが続きを促す。ラファエルは静かに頷いた。
「我が皇国は、貴国ルルイユと同じ神、ルベリウスを崇める国家でありますが、その宗派が違います。ですが主たるお方は同じ。よって貴国との同盟も恙無いものと受け止めております、が」
その先を、ラヴィエルが引き取った。
「近年、ルキオなるものどもが、貴国ルルイユとの国境付近の集落および町々にて、不穏な動きを見せています」
「邪教……とまでは、まだ呼びませんが、しかし明らかに、何かをしようとしている」
兄と弟、受ける印象は全く違うその容貌の中の、よく似た目元が、厳しさを増した。
「先日、とある筋から入った情報には」
ラファエルが、沈痛な表情を浮かべる。
「夢遊病のようになった者たちが、街を徘徊していたと。目は虚、しかしながら、ルキオなるものの崇めると思しき神の名を繰り返しながら、ルキオの集会所へ向かう様は、さながら幽鬼のようであった、と」
「あれがルキオなるものの仕業ならば…いえ、状況的にそうであるとは確信しておりますが、ならば、我らは、ルキオを排さねばなりません」
はいアウト。とは、エクレイアの心情である。どう見てもカルトである。まさかこの世界にも、と、以前の記憶が鎌首をもたげたがそれをため息で流して、エクレイアは静かに思考を巡らせた。
まさか、という、一つの疑問が。
いや、もはや、疑問ですらないのかもしれない。少なくとも、前世でこの状況になったならば、限りなく黒に近いグレーになるだろうと思われる。
「ラファエル殿下、ひとつ、よろしいでしょうか」
「なんだい、エクレイア?」
「その、街、ですけれど。もしかして、レクセンの街ではございませんか?」
「…なぜ、それを」
やはり、という顔をしたエクレイアを、ラファエルは、硬い表情で見つめる。
さてどうしたものか、と、エクレイアは考えた。
レクセンの街というのは、エルヴィアーナとルルイユの国境沿いにある農村地帯の街だ。農作物を扱う商人と農民によって作られた、市場街とでも言うべきか。
ルルイユにもいくつかある経緯を持って成り立つ街ではあるが、殊にレクセンに関しては独特の作物がある。
「これは、ひとつの可能性です。あまりにも情報が少なすぎるのですもの」
エクレイアは一つ断ってから、
「恐らく、そのレクセンの街の、メルム草が使われたものと想定いたしますわ」
メルム草。
という、名称の植物はこの世界独自のもの。主だっての用途は、いわゆる麻酔だ。鎮痛剤にも用いられる。そのメルム草が、レクセンの街の主要産業となっている。
ここまで言えば、もしかしたら察しのいい人ならば気付くやもしれない。殊に、ここにいる顔ぶれ、特にリージオ程の人ならば。
けれど、ラファエルやラヴィエルは元より、リージオすら、エクレイアの言わんとするところを理解できないようだった。
(カルト教団、麻酔……、“以前”ならここでもう八割がた確定のような、一種の様式美のようなものがありましたけれど)
エクレイアは、心の中で静かに唸った。
ここには、この国には“ない”のだ。
清廉なるエルヴィアーナ、敬虔なるルルイユ。両国にとって、これは、未曾有の、否、未知の事態なのかもしれない。
存在しないのだ。カルト教団なる存在も、そして、麻酔薬の別の利用法も。
即ち、
「それは恐らく、メルム草の誤った使い方なのではないでしょうか」
洗脳。
という言葉が恐らく通じないであろうことはなんとなく察しがついた。エクレイアとて、肌で感じたことはない。だが、前の知識は警鐘を鳴らしている。
…だとするならば、どう表せば良いか。結局エクレイアは、限りなく遠回しに言う他なかった。
洗脳という言葉が存在しない世界において、どう言い換えれば伝わるか、それを考えながら、ゆっくりと注意深く話す。
何かないか、確か神話の中にそのようなものがあったはずだ。確か…。
「誤った使い方?」
「……ええ。神話においてメルム草の親となる植物は、痛みを和らげ、治癒の間の苦痛を和らげる用途で使われたとされておりましたわよね」
「ああ、ルベリウス様が兵士たちに施された慈悲だとされているな」
四つの瞳に見つめられながら、そしてまた、間近でリージオの視線に縫いとめられながら喋り続けるエクレイアは、妙な緊張感を覚えた。
「その中に、本来少量をすり潰し、薬師の処方によって塗り薬にして使用すべき植物に、誤って火をつけてしまい、その大量の煙を吸い込んでしまった兵士の話がございましたでしょう?」
はっ、と、リージオの瞳が見開かれる。ラファエルもラヴィエルも、似たような顔をしていた。
「レグニ村の狂戦士の話か、痛覚を無くし、言葉も通じぬ状態のまま、たった一人で敵軍に突進し、敵陣を半壊させ、自らも息絶えたという……毒煙により獣に成り果てた戦士の」
「まさか、だがそんな…」
ラヴィエルが神話を思い返すように呟き、絶句する。
その隣で、二の句が継げないラファエルの考えていることは、エクレイアには何となく理解できた。
以前の彼女の認識として、神話、昔話、などというものは、基本的に、教訓話のようなものだ。このような時には何をどうすれば良い、これはしてはならぬ、などというものを、理屈ではなく、より鮮やかな印象を持って教え込むための道具。
無論この世界において神話はより実話に近く、強制力も強い。というよりは、魔法が存在するこの世界においては、絶対の指針となり得るものだ。故に、メルム草をそのように使おうとする輩は存在しなかった。……これまでは。
「勿論、空想の域は出ませんわ」
エクレイアは冷静に言った。
「ですが、このようなことがあるならば、それはとても危険なことです」
ルキオなるものは危険である。
異世界の知識とこの世界の常識が、絶妙に混じり合いながら、告げていた。
「………エクレイア」
リージオが、重々しく顎を引く。
「お前の推論は、突飛だが、一考の価値がある。ならば、我らからも、お話ししなければならないだろう。これは、最早ルルイユだけの問題ではないのだろうから」
難しいことになってきてしまった。
かなり好みの分かれる展開になってしまいました。
嫌な予感がされた方、どうかご自衛よろしくお願いいたします。




