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調子良く弾む蹄の音と、微かに聞こえる車輪の音以外は、馬車の中は穏やかな静けさで満ちていた。
背筋を伸ばして座ったエクレイアは、今日あったことを思い返していた。今日というのは実に、様々なことが詰め込まれた一日である。
アルベール殿下まではまだよかった。メリア嬢にジルベール殿下ときて、とどめにジュリアナ王妃襲来ですっかり疲れてしまったエクレイアには、この静寂があまりにも優しく、ついうとうととしそうになる。
「エクレイア。今日は眠っていてもいいよ。立て続けに疲れたろう」
「…! いえ! 大丈夫ですわお父様」
馬車で眠りこけるなど、淑女としてはあるまじき行為。品がないというのは無論のことだが、それよりももっと差し迫った危険もある。
「大丈夫だよ、エクレイア。家に着いたら起こしてあげるから」
リージオは穏やかに苦笑した。その顔は完全に、ルーベルハイム公ではなく、ただの父親のもの。
「無論他の貴族の馬車でやろうものなら叱っていたが、ね」
「致しませんわ!」
他の貴族の馬車でうら若き貴族の娘が居眠りなど、自殺行為に等しい。そのままどこへ連れ去られても文句は言えない。
きゅっと唇を引き結び、たわみかけていた背筋をピンと伸ばせば、リージオは苦笑いを深めた。ほんとうに、貴族の娘として育ったものだなと、感慨深げな呟きの中に、ほろ苦いものが混じった気がしたが、エクレイアはあえて触れることはしなかった。
「…そういえばお父様、アルベール殿下が気になることを仰っていらっしゃいましたわ」
「気になること?」
「ジュリアナ王妃の思うまま、と」
エクレイアの、あらゆるものを省いた言葉でも、父には伝わったらしい。
というよりは、エクレイアのその省き癖は、父の影響が大きいのだろう。一を聞いて十を知る、その察しの良さを父母両名から無自覚のうちに鍛え抜かれたせいで、ルーベルハイム家では言葉が最小限以下でも伝わってしまうのだ。
リージオはやや眉間に皺を寄せて、それからふとため息をついた。
「……アイリーン様に聞け、とは?」
「え…」
「言われたんだな?」
こくり、と、頷く。なにか、とても嫌な予感がする。
「そうだな…ああ、まさかこんな結果に終わるとも思わなかったから、お前に言うのは避けていたが」
リージオはその口元から完全に笑みを消して、宙を仰いだ。エクレイアは黙って続きを待つ。場を支配する静寂はその性質を変え、まるで張り詰めた糸のような緊張感を帯びた。
「…どこから話したものかな。殿下からはどこまで聞いた?」
「いえ、その…色々聞くとその後のお話に集中できなくなりそうでしたので、また後日ということに……」
「成る程な」
「そうしたら、自分はしばらく留守にするから、アイリーン妃殿下に聞け、と」
ふむ、と、わずかに思案げな表情を見せたものの、リージオは今度は宙を仰ぐことはせず、ひたとエクレイアを見た。
「話しておくには遅すぎたかもしれんな。だがまあ、概ね筋書き通りではあるが。………結論から言おう、エクレイア。お前の婚約破棄は定められていた」
「え、…….ええ!?」
もう今日は本当に、あれやらこれやらそれやらでいっぱいいっぱいだ。
最後の最後まで、良き令嬢、良き花嫁たらんと努めた自分の思いは。いやそれは確かに義務感が強かったとは言えるが、それでも幼心に、ルーベルハイムの誇りを常に持てという父の言葉は、王太子妃となれという母の言葉は、とても重く、しかしてそれこそが自らにかけられた期待だと思えばそれすらも嬉しく…。
………うん?
「パルティアは、言い続けていたはずだよ。『次期王太子妃となるにも恥じぬ娘であれ』とね」
「え、……あ…」
そうだ、今思えばおかしな話だったのだ。第二王子であるジルベールの婚約者でありながら、エクレイアは母パルティアから、「王太子妃としても恥じぬよう」と言われ続けた。それが息をするのと同義であるほど当然なことになってからはあまり考えることはなかったが、いや…だがしかし、それを額面通りに捉えたことは一度もなかったエクレイアである。
「でもそれは…、それくらい、気をつけて、精進しろという、ことかと…」
か細くなってか細くなって、ついに言葉尻は消えた。
次第にエクレイアの顔が下がっていく。
つまり、最初から言われていたのだ。エクレイアは、「王太子妃として相応しくあれ」と。従って、王太子として不適格であると裁定が下されたジルベールとの婚約を破棄することは、遅かれ早かれ決定していた事項である。
…いや、冷静に考えてもこれを察しろなど無茶だろう。
「あああ…私………」
「すまん、私もパルティアも、言葉足らずだったな…」
「いえ…ああ………私…」
「このことはアルベール殿下、アイリーン妃殿下、そして陛下もご存知かつご了承の上だ。しかし、お前がジルベール殿下と連れ添って幸せになるのであれば、それはそれで望ましかったというのも本音だが」
「…………本気で?」
「いや…」
リージオの目が泳ぐ。
それだけで色々と察してしまって、エクレイアは脱力した。それを見たリージオは慌てて、
「ジルベール殿下に見込みがなかったわけではない。それに、王太子妃、ひいては王妃として立つよりも、その方がお前の自由度も格段に上がるというメリットもあった」
「………それは、まあ…確かに…?」
「後付けだがね」
「……ですよね…」
正直過ぎる父の言葉に、エクレイアは最早苦笑いするしかない。
溜息すらもつけないくらいに脱力して、こめかみをおさえながら、エクレイアはちらりと父親の顔を見た。
年月によって刻まれた皺こそあれど、強い意志を奥底に隠した目も、すっきりとした鼻梁も、美丈夫の名残をありありと見せつけている。撫で付けて束ねた髪はまだ白いものは混じらず、若々しくすらあった。
母も母で年齢を感じさせない美女ではあるが、この人も大概…と、エクレイアが思考をあらぬ方向へすっ飛ばしそうになっていると、リージオは、くすり、と、小さく笑う。
見ていたこと、考えていたことがばれてしまったかと、エクレイアが思わず身構えると、
「ジュリアナ王妃の思うまま、と、言われたと言ったね」
「は、はい……」
「だとしたらアルベール殿下には申し訳ないが、殿下はこの老人を侮り過ぎだよ」
ふふ、と、穏やかに笑う声が、その穏やかさには似合わぬ不穏さを持って響く。
エクレイアは思わず居住まいを正して、その真意を探った。
しかし、その表情には穏やかさしかなく、それ以上を求めるにはあまりにも困難を極め、結局エクレイアは諦念の笑みを浮かべて、
「……まさか。アルベール殿下はいつも仰っておりましたよ。“あの男を侮るものはばかだ。あの男は、過ぎるくらいに過剰に評価したとしてもその上を行く”と」
「おやおや、それは……随分と買いかぶられているな」
「でしょう? お父様を侮るなんて、とんでもない」
無邪気な親子の笑い声が響き、初老の御者が薄らと笑みを浮かべて呟いた言葉を、馬車の二人は知る由もない。
「ああ、お嬢様が、笑っておられる。よかった、よかった」
余談だが、その日のルーベルハイム家の食卓は、いつも以上に豪勢だったとか、なかったとか。
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