第18話「二律背反」
山深い静寂の底に、ねっとりと湿った冷気が淀んでいた。
行政の登山マップではとうの昔に「土砂崩落による立ち入り禁止区域」として赤く塗りつぶされ、廃道となった獣道のさらに奥。スマートフォンはもちろん、軍用GPSの電波すら完全に途切れ、方位磁針の針が狂ったように円を描き始める結界の向こう側――。
現世から半歩だけ外れたその霊峰の深奥に、苔むした石段と、朽ちかけた山門が息を潜めるように佇んでいた。
俗世の追っ手や索敵網を完全に拒絶する、地図にない古寺。
境内に足を踏み入れた瞬間、四人の肌を粟立たせたのは、骨の髄まで凍てつく冷気と、肌を裂くような濃密な殺気だった。
待ち受けていたのは、隼人が言っていた「高僧タイクーン」――驚くほど若く、妖しいまでの美しさを湛えた女性だった。
墨染めの衣は質素そのものだが、その細い体躯から放たれる圧倒的な威圧感は、とても世捨て人のそれではない。
タイクーンは静かに歩みを進め、四人の前に立つと、その鋭い眼光でそれぞれの魂の奥底にある潜在能力を瞬時に見透かすように告げていった。
「神楽桃華。お前の強みはその鍛え上げた喉と歌唱の力、そしてリズムだ。小細工に逃げるな。己の歌声とステップで神秘をねじ伏せ、戦場ごと敵を調律・粉砕する『アルカナ・ディーヴァ』を目指せ」
「空原レン。お前の奥底には消えぬ生命の火が眠っておる。傷つき倒れゆく者の命を強引に繋ぎ止める癒やし手――まずは根源たる回復呪文【 LIFE 】の修得を軸に、己の生命気を他者へと注ぐ術を極めよ」
「有瀬ゆめ。お前は盤面を見下ろし、操る側の目をしておる。前衛の呼吸と出力を引き上げ、敵の体勢を崩す『アルカナ・コンダクター』となれ。味方の背中を蹴り飛ばして加速させる支援呪文【 BOOST 】を我がものとせよ」
そして最後に、タイクーンの視線が健人で止まった。
その冷たい瞳の奥に、ふっと微かな追憶の光が揺らめいた。
「相馬健人。お前の歩法……気配の殺し方、重心の置き方まで、若き日の隼人に瓜二つじゃな」
どこか愛おしむような、それでいて厳しい師の響きを帯びた声だった。
「あやつも昔、神秘を持たぬ我が身を呪い、歯を食いしばってこの境内の土を舐めたものよ。『人の身のままで、怪異の喉笛を掻き切る術を寄越せ』とな。血反吐を吐き散らしながら、夜明け前から闇に紛れてワシの首を狙い続けた……懐かしいわい」
タイクーンは墨染めの袖を静かに翻し、懐かしむようにわずかに口元を緩めた。だが、その微笑は一瞬で氷のような厳冬の気迫へと戻る。
「だが健人、お主の瞳にある熱は隼人以上の危うさを孕んでおる。カードの加護など端から不要。人の身で超常を狩る『シャドウ・ウィザード』――隼人から継いだその影の牙を、ワシの眼前で極限まで研ぎ澄ましてみせよ」
「……覚悟はよいな」
短く重い問いかけに、桃華、レン、ゆめ、そして健人は無言で深く頷いた。
修行が始まった。
桃華は激流逆巻く滝壺の前へと立たされていた。爆音にかき消されぬよう、裂けんばかりに喉を張り上げ、音圧そのもので飛沫を押し返す絶唱の行。
左遷組に襲われたあの日、裕也とるなが敵を圧倒する傍らで、自分だけが無力なお荷物として健人に助け出された屈辱。「次に裕也の前に立つときは、絶対に彼の盾になる」という悲壮な誓いを胸に、喉から血の味が滲もうとも、空間を震わせる【 VOICE 】の原初を呼び起こすべく歌い続けた。濡れて滑る岩場でステップを踏み鳴らし、自らの心拍と連動させて衝撃波を刻む【 BEAT 】と、その残響を重ねる【 ECHO 】の感覚を、肉体へ強引に叩き込んでいく。
健人は、かつて父が踏破したメニューにさらなる負荷を上乗せしていた。足音や衣擦れ、自らの殺気すら完全に消し去って死角へ滑り込む歩法【 GHOST 】。そして、至近距離から一切の予備動作なく相手の懐へ潜り込み、骨を軋ませながら関節をへし折る実戦CQC【 ZERO 】。タイクーンが容赦なく振るう鉄杖の連打をガードと脱力だけで受け止め、泥濘に塗れながら、超常能力者を闇の中から一方的に狩り取るための技術を骨の髄まで叩き直されていた。
一方で、レンとゆめの動きには別の意志が宿っていた。
レンは極寒の霊気の中、自らの体温と生命力を削りながら、仮死寸前の小動物や枯れ草に生気を注ぎ込む【 LIFE 】の荒行に食らいついていた。痛みを伴う生命譲渡の感覚の中で、彼女の思考は熱病のように裕也へと収束していく。
ゆめは広域を見渡し、激しく動く桃華や健人の筋肉の収縮、重心移動、息を吐き出す瞬間を寸分違わず感知する訓練を重ねていた。対象が打撃を放つ直前のコンマ数秒に自らの気を同調させ、出力を爆発的に跳ね上げる【 BOOST 】の術理を貪欲に吸収していく。
(強くなって、あたしが裕也を支える……。今度こそ、あいつの隣に立つのはあたしだ)
(桃華ちゃんがいない間に、弱っている裕也先輩を助けて……誰よりも頼られる存在になってみせる)
怜花を取り戻す、仲間を守るという大義の裏で、桃華への対抗心と、弱りきった裕也の心に深く踏み込みたいという執着。二人の瞳の奥には、どこか危うい熱が灯っていた。
◇
一方、るなの【HOP】によって空間を跳躍した裕也は、見知らぬ部屋の床にへたり込んでいた。
「……ここは?」
顔を上げた裕也は、思わず目を丸くした。
そこは、どこからどう見ても「ごく普通の女子高生の部屋」だった。
ブゥン
「!?」
その時、るなの髪の色が、淡い光を帯びて落ち着いた茶色のものへと変わった。
「ふうっ」
「はっ?」
「これ、けっこう疲れるのよね」
そう言うと、るなの服装もまた、普通の女子高生のようなラフな部屋着のシャツと短パンへと変わっていった。
パステルカラーで整えられた棚には学校の教科書や参考書が並び、机のフォトフレームには制服姿の友人たちと笑い合ってピースサインをしている写真が飾られている。
しかも、その写真に写っている少女の髪は、あの派手なピンク色ではない。目の前の彼女と同じ、落ち着いた自然な茶髪だった。
「普段はね、その辺にいる普通の女子高生として学校に通ってるの。あの髪じゃ目立ちすぎるでしょ」
後ろから平然とした声が降ってきた。
振り向いた裕也は言葉を失う。るなはクローゼットの奥にある隠し扉を、何の気負いもなく押し開けていた。
「はい、こっち。ぐずぐずしない」
階段を降りた地下の光景は、地上の部屋の日常感を一瞬で吹き飛ばした。
冷たい青白い光が満ちるその空間には、何本もの巨大なバイオカプセルが並び、不気味な泡を立てる培養液や、人工子宮を思わせる異形の装置群が無機質に脈打っていた。
「な、なんだよこれ……お前、一体……」
「裕也は余計なこと考えなくていいの。まずそれに入って」
「いっ、いや、これって培養……怪しい液体が入って――」
「うっさいわね、時間がないの! さっさと入りな!」
「うわっ!」
るなは問答無用で裕也の背中を押して、自身が疲労回復や睡眠時に使っているという「リカバリーカプセル」の中へ裕也をぶち込んだ。
ハッチが閉まり、高濃度の医療用ジェルが満たされる。
「リカバリースタート!」
狼谷の刃に裂かれた傷の痛みと、重度の肉体疲労が、急速に引いていくのが分かった。
数十分後。
「こっ、これって……?」
カプセルから引き上げられた裕也は、完全に身体の軽さを取り戻していた。傷口は綺麗に塞がり、だるさも消えている。
「ふぅん、思ったより馴染みが早いわね」
「たしかに...」
「るなと同じカプセルだからかな」
「うっ」
「このるなと同じカプセルでリカバリージェルに浸かったんだから、一緒のお風呂に入ったようなもの。これでるなと裕也はもう他人じゃないよね」
るなはニコッとウインクした。
「うっ……」
るなは自分自身のメンテナンスやバランス調整を淡々と終えると、壁際のラックから木刀と練習用のダミーブレードを手に取った。
「さて、回復したら修行開始。……腑抜けた感覚、叩き直してあげる」
「え、ちょっと待て、いきなり――」
間髪をいれず、るなの鋭い踏み込みが迫る。
組み手という生易しいものではない。殺気を乗せた実戦形式の模擬戦だった。
「来なさいよ!」「足が止まってる!」「怜花を取られたのがそんなに悔しいなら、るなを殴り倒してみせなさい!」
容赦のない連撃に、裕也は必死に身体を動かした。最初は受けに回るばかりだったが、るなの容赦ない突きや蹴りを紙一重でかわすうちに、眠っていた闘争本能が、泥水の中から引きずり出されるように呼び覚まされていく。
バチィンッ! と互いの打撃が交錯し、息を切らした裕也がどさりと床に倒れ込んだ。
全身から滝のような汗が吹き出している。だが、先ほどまでの虚ろな目の濁りは消えていた。
「……はい、これ」
荒い息を吐く裕也の前に、るなが小さな包装紙に包まれたスティック状の固形物を放り投げてきた。
「何だこれ……?」
「【リカバリーメイト】。回復サプリよ。疲れた時はこれがいちばん効くんだから」
言われるがまま口に放り込む。
薬臭い苦味を覚悟していた裕也だったが、予想を裏切る香ばしさと優しい甘みが口いっぱいに広がった。
「……うまっ。これ、普通に美味いな」
「でしょ? るなのお気に入りなんだから、感謝しなさいよね」
「いま渡したのはるなの大好きなイチゴ味よ、他にもピーチ味やオレンジ味やアップル味や……」
「へっ、へえ……」
「とりあえず何個か渡しておくから、疲れたら無理せずそれを食べること。どんなに食べてもぜんぜん太らないから安心なんだ」
驚くべきことに、噛み締めて飲み下した瞬間、急速にスタミナの芯が満たされ、筋肉のきしみが消えていく。身体の重さが綺麗に霧散し、完璧に動ける状態へと引き戻されていた。
一息ついた裕也の横に、るながすとんと腰を下ろした。
至近距離から漂う甘い香りに裕也が少し戸惑っていると、るなは真面目な横顔のまま、静かに口を開いた。
「……裕也。あんた、自分が何に巻き込まれてるか、ちゃんと分かってないでしょ」
「え……?」
「もう怜花を取り返せば終わりじゃないのよ。るなたちの生まれた意味や」
「そんな…」
「いまはまだ全部話せないけれど、教えられることはぜんぶ伝えるから」
「るな、キミはいったい?」
「姫香が率いる十三人衆。それから、私たちのような限られた人間が展開するパーソナルゾーン……そして、その力の根源である【アライメントカード】のこと」
るなは自らの胸元に手を当てた。
「あのカードには、理屈を超えた不思議な力が込められてる。十三人衆も、あたしも……怜花や、裕也の体内にもそれは宿ってるの。生まれつきか後天的なものかは人によるけれど、一度宿ったら、死ぬまで体内から取り出すことはできない」
「少なくとも、るなと怜花と裕也には生まれつき胎内に宿っている」
「…………」
「あと姫香にもね……」
「姫香って?」
「闇野プロダクションの母体となっている闇野グループの絶対的支配者」
「…………」
「でもさあ、なぜか部下というか社員?!からものすごく慕われているから、内部から崩壊することはないでしょうね」
「…………」
「この修業が終わったら潜入調査するからね!」
「えっ?! 大丈夫なのかよ?!」
「まあ、敵幹部にさえ見つからなきゃ大丈夫よ」
「敵幹部って、あの黒崎ってやつか?」
「あー、黒崎ってあの種馬野郎の事?」
「たっ、種馬……」
「あんな奴ぜんぜん大したことないわよ」
「!」
「本当に恐ろしいのはアイツなんかじゃない……絶対的支配者エンプレスこと九条姫香と、それに付き従う四天王筆頭のアイギス、そしてエンプレスの側近のRoyal Fangsたちよ。ほかにもヤバいのはいるけれどね」
「…………」
重い真実に、裕也は喉を鳴らした。
だが、るなはそこで少し眉をひそめ、訝しげに顎に指を当てた。
「ただ……ひとつだけ、どうしても引っかかることがあるのよね」
「引っかかること?」
「この前、るなが駆除したあのザコ……名前も覚えてない犬のヤツ。あいつを消した時、体外にアライメントカードが現れなかったのよ。普通なら、命を落とせばカードが顕現するはずなのに」
「……ま、考えても今は分からないわね。それより裕也」
るなは立ち上がり、悪戯っぽく、けれどどこか熱を含んだ笑みを裕也に向けた。
「リカバリーメイトで体力戻ったでしょ? まだまだ夜は長いんだから。……次のラウンド、行くわよ」
普通の女子高生としての素顔、奇怪な地下室、そして命を賭けた手ほどき。
過酷な修行の中で交わされる視線と息遣いに、二人の距離は、確実にこれまでとは違う深さへと踏み込み始めていた。
(第18話「二律背反」おわり / 第19話へ続く)
メインヒロインのひとり神楽桃華が歌う、らいだ~くの挿入歌です
『アンリミテッド・スパークル』
架空アニメ 「らいだ~く」 挿入歌
歌:神楽 桃華
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