第19話「クランクイン」
「おい、機材の防寒対策は完璧なんだろうな!? 現地でレンズが凍りついて回らねえなんてヘマ、絶対に許さねぇぞ!」
闇野プロダクションの機材搬出フロアに、黒崎の焦燥に満ちた怒声が響き渡っていた。
大型コンテナへ次々と積み込まれていくのは、極地仕様の撮影機材と耐寒装備の数々。
九条姫香から舞を通して言い渡された冷酷な「減給・手当カット」の通告、そして「このような醜態が続くようならしかるべき処置をする」という無言の宣告が、黒崎の背筋に今も冷たく突き刺さっている。
(絶対にしくじるわけにはいかねぇ……! 完璧な『上書きの夜』を撮り切って、なんとしても姫香様に認めさせるんだ……!)
怜花を取り戻そうと狂奔する裕也たちの動向など知る由もなく、黒崎たち闇野プロダクションの撮影班は、社運と己の生活防衛を懸けた新作のロケ地――吹き荒れるブリザードに閉ざされた極寒の地でのクランクインへ向けて、慌ただしく動き出していた。
◇
一方、俗世から完全に隔絶された結界の山寺。
血反吐を吐くような過酷な鍛錬を重ねてきた四人――健人、桃華、ゆめ、レンは、すでに極限の激闘の渦中に叩き込まれていた。
ゴウッ、と大気が軋み、境内の四隅から立ち上る異様な魔力。
砂煙を突き破り、四大元素を宿した四体の巨躯――タイクーンが使役する下っ端の「ガーディアン」たちが咆哮を上げて四人に襲いかかっていた。
下っ端とはいえ、かつて対峙した左遷組の能力者たちを凌駕する重圧。
苔むした境内の白砂の上で、タイクーンは静かに両手を合わせたまま佇んでいる。
頭に巻いたターバンの下から覗くその面差しは、到底その深遠な実力や世捨て人のような風格を感じさせないほど、透き通るような肌をした若々しい美女のものだった。
目を瞑ったままのその薄桃色の唇から低く澄んだ祝詞が紡がれ、境内の結界は激しい戦闘の余波を閉じ込めている。
「くそっ……! 硬すぎる……!」
土の巨人と対峙した健人は、泥濘で磨いた暗殺武術の歩法で死角へ潜り込むものの、鋼鉄の岩肌に阻まれて決定打を打ち込めず、剛腕の薙ぎ払いに吹き飛ばされて白砂を転がる。
「キャハッ、ちょ、ちょっと待って! 範囲が広すぎ――!」
風の巨人を相手取るゆめも、不可視の真空刃の猛攻に防戦一方となり、空間把握の糸口を掴もうと必死に跳び回る。
「――っ、ぐ……!」
水の巨人に挑むレンもまた、高圧水流の圧迫に呑まれまいと、己の生命気を極限まで循環させて耐え凌ぐのが精一杯だった。
その乱戦の只中、ただ一人、敵の核を捉えつつあったのは桃華だった。
濡れた岩場で刻み続けた変則のステップ【 BEAT 】で、火の巨人が放つ大岩のような火球を紙一重で見切り、真正面からその懐へ踏み込んでいく。
「私の前で、調子に乗るんじゃないわよ――!」
肺腑の底から解き放たれようとする【 VOICE 】の絶唱。
四者四様、生き残りを懸けた死闘の火蓋はすでに完全に切って落とされていた。
この過酷な試練を誰が突破し、誰が取り残されるのか――その決着の行方は、まだ混沌の嵐の中にあった。
◇
その頃、裕也とるなは、文字通り「敵の本丸」の懐へと足を踏み入れていた。
るなとの過酷な地下模擬戦を経て、実戦感覚を取り戻した裕也。二人の目的は、囚われた怜花の居場所と、あの正体不明の怪物の真相を暴くための潜入調査だった。
しかし、社員証を偽造して潜り込んだ闇野コンツェルン本社ビルは、およそ裏社会の拠点とは思えない威容を誇っていた。
天高く吹き抜けるアトリウム。採光性に優れた巨大なガラスカーテンウォールから柔らかな自然光が降り注ぎ、観葉植物の緑と洗練されたミニマルな北欧風デザインが広がる。最新鋭の顔認証ゲートが滑らかに開閉し、すれ違うエリート社員たちはタブレットを片手に闊歩している。まるでシリコンバレーの巨大メガテック企業そのものだった。
「……おい、るな。これ、本当に悪の組織の本社なのか?」
地下へ続く機密フロアを警戒しつつ、まずは一般利用も可能だという巨大な社員食堂に身を潜めた二人。
裕也はトレイに載せられたカツカレーを一口頬張り、思わず目を丸くした。
「……しかし、ここの食事はうまいな」
「……ええ、ホントに社員割引しないでここまでリーズナブルなんて、やっていけるのかしら」
るなも手元のランチプレートをつつきながら、思わず呆れたように呟く。高級ホテル並みのクオリティの料理が、一般向けの価格ですらワンコイン少々で提供されているのだ。
さらに、ふとウォーターサーバーが並ぶ給水コーナーの壁を見上げた裕也は、目を疑った。
そこには、外では高くてなかなか買えないプレミアム銘柄が掲げられ、でかでかと【今週の厳選ミネラルウォーター(※もちろん無料)】と明記されている。しかも添えられた説明文には「味を薄めないため、投入されている氷もすべて同じミネラルウォーターから製氷しております」とまで書かれていた。
「おい、ここのお冷だってただの水道水じゃなくて、世界から集められた厳選ミネラルウォーターって書いてあるぞ……! 氷まで同じ水で作ってあるって、どんな高級料亭だよ……!」
半信半疑のままグラスを口に運んだ裕也は、喉を通り抜ける清らかな冷たさに、思わず息を呑んだ。
雑味など微塵もなく、舌の上で驚くほどまろやかに広がる極上の喉越し。
「……っ! う、うまいな……なんだこれ、水なのに全然違うぞ……!」
「……たっ確かに、はっ?! いい、飲んで感動してんじゃないわよ。でも確かに徹底してるわね。社員の健康維持と味覚のストレスフリーまで福利厚生で計算されてるってわけ」
るなも思わず一口飲んでつられそうになり、慌てて我に返って首を振る。裕也は戦慄しながら、ラックから抜いてきた社内広報紙を広げた。
すぐ近くのテーブルでは、全身を威圧感ある特殊部隊装備で固めた隊員と、上品なスーツ姿の女性一般社員が、穏やかに言葉を交わしている。
「あらぁ、こんにちは。いつもお仕事お疲れ様です」
「うん? ああ、どうも」
「そういえば上のお子さん、今年受験でしたっけ?」
「ええ、そうなんですよ」
「実はうちの妹もそうなんですよ。お宅のお嬢さんと親しくさせていただいているみたいで、いつもお世話になっています」
「いえいえ、こちらこそ」
「ホントにもう、よくお邪魔しているみたいで」
「いや、うちの娘もしょっちゅうお宅に遊びに伺っているそうですから、あまり気にしないでください」
「そう言っていただけると助かります」
「まあまあお互い様ですな、こういうことは。それよりなんでも志望大学も同じとか」
「ええ、そうなのよ」
「そういえば二人の志望校、今年はなかなか倍率が厳しいようですな」
「はい、お互いに得意不得意科目が分かれているので補完しあっていて」
「いい感じですなあ」
「ええ、そうなんです」
「うん!? おっと、そろそろ夜勤に行かないと」
「あらあ、今日も夜勤なんですか?」
「まあ、これが仕事ですから。これからもお互い会社のために頑張りましょう」
「ええ、もちろんですよ」
「それでは」
「ええ、お仕事頑張ってくださいね」
特殊隊員がトレイを持って会釈し、にこやかに立ち去っていく。
その背中を見送りながら、裕也とるなは机の下で拳を握りしめ、冷や汗を流していた。
「…………」
「…………」
(俺たちはいったい何を見せられてるのだろうか?)
「……裕也、絶対に動くんじゃないわよ」
るなが顔色ひとつ変えずに、唇の端だけを微かに動かして囁く。その声には極度の緊張が張り詰めていた。
「……ああ、分かってる。あの隊員の腕のワッペン……『YSS(闇野セキュリティサービス)』の直属部隊だ。何が受験の世間話だ……あいつ、全身から放ってる気配が尋常じゃねぇ。完全に人を何人も平然と処理してきたプロの匂いだ」
「ええ。あんな化け物じみた処刑部隊の連中が、ごく普通の社員と笑顔で溶け込んでる。……この空間、想像以上にイカれてるわ。一歩でも怪しまれたら、あの隊員たちが一瞬で群がってきて跡形もなく消されるわよ」
あまりの異常さと薄氷を踏むような命の危機に、裕也の喉がゴクリと鳴った。
恐る恐る広報紙に視線を戻すも、そこに躍る文字は、そんな殺気立った現実を覆い隠すようにあまりにも眩しすぎた。
・【巻頭特集】今週の姫香様のお言葉(※神々しい近影写真つき)
・【目安箱採用】現場の意見を反映! 社内カフェに低糖質スイーツ導入
・【福利厚生】有給消化率・定期検診受診率、今期も堂々の100%達成!
・【健康第一】報連相さえすれば怒らない! 姫香様・舞様の個別お悩み相談室
・【社内特典】闇野リゾート優待利用:社員紹介なら原価+手数料5%!
すれ違う社員たちの身なりは一流、挨拶やマナーも完璧。お互いに笑顔で和気あいあいと談笑し、ギスギスした空気など微塵もない。
挙句の果てに、紙面には『今月の姫香様・公式高画質ブロマイド無料DLコード』と『教えて姫香様コーナー』に加え、さらなる熱狂を生んでいる福利厚生の告知まで踊っていた。
【公式SNS連動・社員限定企画】
大好評! 九条姫香様をはじめ、グループを支える主要女性役員陣の推し活コンテンツ更新!
登録社員限定のスペシャル画像データを今週も無料ダウンロード開放中!
周囲のテーブルを見渡せば、男性社員も女性社員も関係なくスマホを握りしめ、「今週の壁紙データ最高すぎる……!」「待って、今週の更新ヤバくない!?」と至福の表情で歓声を上げている。
社内SNSのタイムライン上では、絶対神である姫香様への忠誠は言わずもがな、その次に控える『二番手人気』を巡って、知的で冷徹な美貌を誇る神楽舞派と、慈愛と気品に満ちた皇紗那派による熱い論議が日夜白熱しているようだった。
裕也は戦慄しながら、紙面のさらに深い統治構造のページへと目を走らせた。
そこには、外部からの買収を100%シャットアウトする「株式完全非公開」と、手厚い配当で社員を満たしつつ売買先を自社に限定した「非公開社員持株会システム」の規約。
派閥の発生を防ぐため、希望者の配置転換は上司から即座に幹部の舞へ、そして姫香様へ直通上申される風通しの良さ。
横領や指示命令違反、ハラスメントには容赦なく厳罰を下す一方、匿名通報メールや独立した相談窓口を完璧に完備して内部腐敗すら自浄する無欠のガバナンス――。
さらに広報紙の末尾には、にこやかなイラストと共に恐ろしい文言が躍っていた。
【社員のみなさんへ】
みなさんの風通しのよい職場環境を目指しております。そのため万が一、不審者を発見したら社内各所の通報ボタンや、配布済みの無料アプリにて闇野セキュリティサービス(YSS)へ速やかにお知らせ願います。(※YSSは社員寮や社員住宅にも完備されています)
(……おいおい冗談だろ……。さっきのあのヤバすぎる連中が、全社員のスマホひとつで即座に呼び出されるってことかよ!? 全社員が『生きた通報端末』で、裏社会最凶の処刑部隊YSSが24時間体制でビル中に張り巡らされてる……! こんなの、些細なミス一つで即刻ジ・エンドじゃねぇか……!!)
付け入る隙も内部崩壊の余地も1ミリもない、完璧すぎるホワイト要塞。
ふと社食のモニターから目を離し、併設された社内売店や全国展開のメガ書店「YBC(闇野ブックコミュニケーション)」の棚に視線をやった裕也の体が、雷に打たれたように硬直した。
他社本すら爆速で入荷する最強の物流網を誇るYBCと、姫香の著書を手掛ける超一流の闇野出版。
その棚の片隅に、あまりにも異様な空気を放つ一冊が、極小部数だけ並んでいたのだ。
『【限定発刊】完全服従・神楽怜花 禁断のプライベート写真集(※撮影・企画:黒崎)』
「――っ!? れ、怜花……!?」
視界が真っ赤に染まり、裕也の喉から絞り出すような悲鳴が漏れかけた。
表紙に写る無防備な怜花の姿。奪われた大切な幼馴染が、こんな見世物にされ、あまつさえ全国流通の棚に晒されている。激しい怒りと動揺で目の前が暗くなり、トレイの上のスプーンを握りつぶしそうなほど手が震え出した。
「馬鹿、声が大きい! 前を向きなさい!」
るながテーブルの下で裕也の脛を鋭く蹴り上げ、冷めた紅茶を一口すすりながら、冷徹な小声で耳打ちしてきた。
「……落ち着きなさい、裕也。あの種馬野郎の暴走よ。あれは黒崎が調子に乗って幹部の舞や姫香に完全に無断で出版コードを通して、流通ルートに流した現在進行形の大暴走。いま社内は大騒ぎよ」
「無断……!? でも、あいつ怜花をこんな……!」
「情報網によれば、知った舞は般若のような笑顔で『へぇ、黒崎。遺言はそれだけ?』って静かにブチ切れてるし、姫香に至っては完全スルーの絶対零度モード。あいつ、組織から物理的にも社会的にも消される秒読み段階よ」
るなの冷たい声に、裕也は荒い息を吐きながら必死に拳の震えを抑え込もうとした。
だが、怒りと激痛のような精神的ショックで血の気が一気に引き、立ち上がろうとした足がガクリと折れる。
「っ……う、あ……」
クラリと視界が暗転し、裕也は椅子から崩れ落ちそうになってテーブルに手をついた。
「裕也っ……!?」
るなが慌てて支えようとした、その瞬間だった。
「あらあら! 大丈夫ですか、あなた!?」
通りかかったスーツ姿の女性一般社員が、血相を変えて駆け寄ってきたのだ。
「か、顔が真っ青ですよ! 貧血かしら……大変、無理に立っちゃダメです! 肩を貸しますから、ゆっくり!」
「え、あ、いや……大丈夫、です……」
「大丈夫なわけないでしょう! さあ、すぐそこが医療スペースですからね!」
断る隙も与えぬ手慣れた介抱で、女性社員は裕也の腕を取り、親切そのものの笑顔と気遣いでテキパキと医療エリアへと連行していく。予期せぬトラブルに、るなも目を白黒させながら後を追うしかなかった。
◇
連れてこられた医療スペースは、町の総合病院を凌ぐ最新鋭のクリニックそのものだった。
白を基調とした清潔なブースで、常駐の白衣の医師がペンライトで裕也の瞳孔を確認し、聴診器を当てる。
「うん、血圧も心音も異常ありませんね。極度の精神的動揺か、軽い迷走神経反射による立ち眩みでしょう。診察するほどのことでもありませんよ。奥のベッドで少し横になって休んでいきなさい」
「……は、はい……すみません……」
「いえいえ、お仕事のプレッシャーも多いでしょうからね。体調第一ですよ」
医師の温かい言葉に見送られ、カーテンで仕切られたリカバリーブースのベッドに腰掛けた裕也は、完全に毒気を抜かれていた。
隣のパイプ椅子に座り込んだるなもまた、完全に魂の抜けた顔で天井を仰いでいる。
「…………」
「…………」
「……ねぇ、裕也」
「……なんだよ、るな」
「私たち、敵の本丸に潜入して……一般社員に優しく介抱されて、綺麗なクリニックで休まされてるわね」
「……ああ。お医者さん、めちゃくちゃ優しかったな……」
あまりにも隙がなく、親切で、完璧に機能している「ホワイト企業」の現実に直面し、二人はそろって深い放心状態に包まれていた。
「……呆れてないで、手元の端末を見なさい」
数分の沈黙の後、気を取り直したるなが溜息をつきながら、偽造アクセス権で繋いだ社内データベースの画面を裕也の前に突きつけた。
そこに並んでいた組織図と役員紹介を見て、裕也は我に返り、思わず目を丸くする。
「……おい、るな。グループの執行役員とか主要幹部の情報、社内ポータルに普通に顔写真付きで載ってるぞ? 秘匿すらしてないのか?」
「表向きはね。姫香様を支える若き女性エリート役員陣――って触れ込みよ。でも彼女たちの正体は、九条姫香の直属部隊『特務四人衆』。……通称『Royal Fangs』と呼ばれている四人よ」
るなは画面の筆頭に表示された美麗なポートレートを、冷たい瞳で見据えた。
「まず、一番上にいるのが神楽 舞。表では人事統括部兼コンプライアンス委員長。黒崎を文字通り詰ませている張本人よ。コードネームは『ミラージュ』。組織の情報と人事網を完璧に統括し、姫香の代理人として君臨する正真正銘のナンバーツー。裏世界では『ミニ姫香』なんて呼ばれていて、裏切り者を幻影のように葬る冷徹なブレーンね」
画面をスクロールさせ、るなは次々と指を走らせる。
「その隣が皇 紗那。表向きはグループのCSR推進部長兼エグゼクティブアドバイザー。コードネームは『セレスタ』。アイギスの副官兼任補佐を務める強力な幹部の一角よ。……表向きはグループの顔として聖母のように振る舞っているけれど、その底知れなさは舞以上とも言われているわ」
「……底知れないって、実力は?」
「分からない。本気を出したところを見た者は、味方にすらほとんどいないのよ」
るなは小さく息を吐き、残る二つの枠へと視線を滑らせた。
「総務部長兼特命部長で渉外担当の柊木 静、交渉と称してあらゆる団体や企業に潜り込み対象に接近するコードネームは『シェイド』。影に潜んで標的を確実に仕留める、隠密と暗殺のプロフェッショナル。そして広報部兼メディア事業本部長の七瀬 もえ(ななせ もえ)、コードネームは『カメオ』。表のメディアと裏のプロパガンダを一手に掌握する情報戦のエキスパートよ。」
画面に並ぶ華やかで清楚なプロフィール写真と、るなが淡々と明かす特務四人衆の裏の顔。
あまりにも完成されすぎた「ロイヤル・ファングス」の陣容に、裕也は怜花への怒りと不安を抱えながらも、本格的な胃の痛みを覚えるのだった。
その時だった。
医療スペースの自動ドアが静かに開き、フロアの空気が一変した。
談笑していたスタッフたちが一斉に背筋を伸ばし、しかし恐縮するどころか、パッと花が咲いたような笑顔で一礼する。
「セレスタ様! 本日もお疲れ様です!」
現れたのは、さきほど端末で確認したばかりの幹部――皇 紗那、コードネーム・セレスタその人だった。
純白のスーツを身に纏い、凛とした気品と慈愛に満ちたオーラを放ちながら、彼女はスタッフ一人ひとりに柔らかく微笑みかける。
「いつもお仕事ご苦労さまです。体調を崩された方はいらっしゃいませんか? あまり無理をしすぎないように、適度に休憩を取ってくださいね」
「「「うっ……! 今日も尊い……!!」」」
その一言を浴びたスタッフたちが、胸を押さえて次々に悶絶していく。
底知れぬ人望と実力を持つ幹部の実態を知った裕也の目には、その眩しい笑顔がなおさら得体の知れない恐怖として映っていた。
(な、なんだこの宗教的な推し活空間は……!?)
裕也がカーテンの隙間から内心で絶叫しながら固まっていた、その瞬間。
ふと、スタッフと笑顔を交わしていたセレスタの視線が、ベッドに腰掛けて見慣れない空気で完全にフリーズしている裕也たちのブースへと、静かに向けられた。
バチリ、と視線が交錯しかける。
「っ――!」
裕也の背筋に冷水のような汗が走る。
命がけの修羅場をくぐってきた本能と、るなとの特訓で叩き込まれた即応性が、裕也に超高速で目を逸らさせ、無我夢中で手元の備え付けの紙コップの水を口へ運ばせた。
隣のるなもまた、ごく普通の退屈そうな付き添いの女子高生の顔でスマホの画面を弄っている。
数秒の息詰まる静寂の後。
セレスタは小さく優しげに微笑むと、「お大事になさってくださいね」とでも言いたげな穏やかな足取りで、別の部署への巡回へと去っていった。
嵐が去った後、二人は急いで一般エリアの廊下へと抜け出した。
だが、脱出間際に受付へ向かう廊下でも、目にする貼り紙の数々に裕也の意識は遠のきそうになる。
壁一面には、姫香を中心にセレスタをはじめとする幹部陣の美麗な写真ポスター。通りかかる社員たちが「今週の姫香様も神々しい……」「セレスタ様、お美しい……」と手を合わせ、精神エネルギーを急速チャージしていく聖域と化している。
(どこを見てもアイドルの事務所か聖域だ……! 廊下を歩くだけで全員のストレスがゼロになるから治安が良いなんて、ずるすぎるだろ……!)
さらに掲示板に目をやれば、怪しい治験募集どころか、『日本国憲法と医療費控除!〜確定申告で戻ってくるお金と医療の権利〜』と題された丁寧すぎる啓発だより。憲法25条の生存権と賢い節税法が分かりやすく解説されていた。
(闇の組織の医療機関だぞ!? なんで確定申告で賢く節税しましょうなんて、社員や市民の懐事情まで心配した社会派の神記事が貼ってあるんだよ! まともすぎる! ぐうの音も出ないほど健全な市民の味方だろこれーーっ!!)
受付で医療事務の女性から「お大事にどうぞ〜。医療費控除のご相談なら総務部でもお受けできますからね!」と満面の笑みで見送られ、裕也は「あ、はい……ありがとうございました……」と完璧な敬語で頭を下げていた。
「……ふぅ、死ぬかと思った……」
闇野コンツェルン本社ビルの外陰へ脱出し、荒い息を吐きながら冷や汗を拭う裕也に、るなは端末の画面を突きつけた。
ベッドで待機していた裏で、本社の制作スケジュールとロケーション管理データを抜き取っていたのだ。
「……裕也、見つかったわよ。黒崎たちの『上書きの夜』、本番ロケの現場」
画面に表示された座標データを見つめ、裕也の目が点になる。
そこには、厳冬期には一面が分厚い氷に覆われ、周囲の地底深くに永久凍土を抱える極限地帯――「北海道・大雪山系、山奥の凍結湖」のロケーション名と、撮影スケジュールが刻まれていた。
「……は? なんでこんな凍りついた湖の上なんかで撮影を……」
「敵も必死なのよ。あの種馬野郎、派手な画を撮るために演者ごと極寒の氷上へロケに出る気ね」
るなは端末をポケットに滑り込ませ、鋭い光を宿した瞳で前を見据えた。
「行くわよ、裕也。次の舞台は――北海道、極寒の凍結湖よ」
(第19話「クランクイン」おわり / 第20話へ続く)
メインキャラクターのひとり城 亜聖(HED)が歌う、らいだ~くの挿入歌です
『Midnight Highway Pulse』
架空アニメ 「らいだ~く」 挿入歌
歌:城 亜聖 & HED
https://suno.com/s/zV5ygrhI6C9xuUzQ




