第11話:ヨナヅキ
日が落ちる前に、近くの宿を取った。
道路沿いにある、小さな宿。
看板は少し色あせているが、営業はしている。
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フロントで名前を書く。
ペン先が、やけに紙に引っかかる気がした。
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「お一人ですか?」
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顔を上げる。
年配の女性だった。
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「はい」
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「この辺りは、初めてですか?」
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「ええ」
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軽く頷く。
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「観光ですか?」
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少しだけ間があった。
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「……仕事みたいなものです」
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女性はそれ以上は聞かなかった。
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「お部屋はこちらです」
鍵を差し出される。
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受け取る。
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そのまま階段へ向かいかけて――
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足が止まる。
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振り返る。
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「すみません」
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女性が顔を上げる。
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「この辺りで、少し聞きたいことがあって」
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「はい」
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「海沿いの方で、細い道ってありませんか」
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その瞬間。
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女性の表情が、ほんのわずかに固まった。
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すぐに戻る。
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「道、ですか?」
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「分かれ道みたいな」
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「草に隠れているような」
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言いながら、自分でも曖昧だと思う。
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女性は、少しだけ視線を落とした。
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「この辺りは……道は多いですから」
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はぐらかすような言い方。
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「そうですよね」
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一度、引く。
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けれど。
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「昼間に見つけたんです」
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言葉を重ねる。
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「少しだけ、入って」
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そこまで言ったところで。
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女性の手が、止まった。
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「……ヨナヅキの方ですか?」
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静かな声だった。
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「ヨナヅキ?」
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聞き返す。
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女性は、すぐには答えなかった。
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ほんの少しだけ迷ってから。
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「この辺では、そう呼ぶことがあります」
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「昔から、そう言われています」
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意味は説明しない。
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「どういう意味なんですか」
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自然に出た問い。
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女性は、ゆっくりと首を振った。
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「分かりません」
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短い答え。
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「ただ」
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一度だけ、こちらを見る。
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「夜は、行かない方がいいと思います」
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柔らかい言い方だった。
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でも、はっきりしていた。
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「……そうですか」
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それ以上は聞かなかった。
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軽く頭を下げる。
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そのまま階段を上がる。
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部屋に入る。
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ドアを閉じる。
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鍵をかける。
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ベッドに腰を下ろす。
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「ヨナヅキ……」
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小さく呟く。
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意味は分からない。
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でも。
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さっきの分かれ道と、結びつく。
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しばらく、そのまま動けなかった。
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やがて、立ち上がる。
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部屋を出る。
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もう一度、下に降りる。
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フロントには、別の男が立っていた。
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四十代くらいだろうか。
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整った服装。
無駄のない立ち方。
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目が合う。
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「いらっしゃいませ」
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落ち着いた声。
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「すみません」
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近づく。
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「少し、お聞きしたいことが」
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男は軽く頷いた。
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「どうぞ」
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「さっき、ヨナヅキって言葉を聞いたんですが」
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その瞬間。
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男の視線が、わずかに変わった。
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「……どこで?」
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短い問い。
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「フロントで」
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嘘ではない。
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男は、少しだけ考えるように黙る。
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やがて、小さく息を吐いた。
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「この辺では、そう呼ぶ人もいますね」
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否定はしない。
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「どういう場所なんですか」
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「特別な場所、というわけではありません」
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即答だった。
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でも。
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どこか距離がある。
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「ただ」
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言葉を選ぶ。
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「行く人は、あまりいません」
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理由は言わない。
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「危ないんですか」
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「……危ない、というより」
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少しだけ視線を外す。
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「居心地のいい場所ではないですね」
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曖昧な言い方。
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それで十分だった。
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「昔から、ですか」
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「ええ」
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短く頷く。
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「昔から、そう言われています」
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また、それだけだ。
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説明はない。
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「行った人は?」
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聞いてみる。
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男は、ほんの一瞬だけ黙った。
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「戻ってくる人もいます」
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“も”。
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その一言が残る。
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「……も?」
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聞き返す。
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男は、わずかに笑った。
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営業用の、作られた表情。
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「気のせいかもしれませんが」
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「少し様子が違う、という話は聞きます」
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それ以上は言わなかった。
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沈黙。
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「……ありがとうございます」
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頭を下げる。
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そのまま、部屋に戻る。
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ドアを閉じる。
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鍵をかける。
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ベッドに座る。
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静かだ。
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さっきよりも、ずっと。
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「ヨナヅキ」
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もう一度、口に出す。
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意味は分からない。
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でも。
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確かに存在している。
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この土地に。
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昔から。
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窓の外を見る。
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完全に夜になっていた。
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暗い。
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その向こうに。
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あの道が、続いている気がした。
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目を閉じる。
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すぐに浮かぶ。
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細い分かれ道。
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奥へ続く影。
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そして――
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“静かすぎる場所”。
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眠れる気はしなかった。




